「あれー?」間延びした声の主を、トオルは全く見なかった。
 人生色々の喫煙席よりの禁煙席、そこがトオルの特等席だった。
 トオルは例の如く姿を消しているが、木ノ葉の上忍の大半は、トオルがそこに居る事を知っている。もっとも、今のトオルは数枚の資料をばらばらと捲って読んでいるから、何かがそこに居るという事は誰にでも解るだろう。
 忍者たるもの体に匂いを残したくないから、喫煙者は嫌われ者で、わざわざこの席付近にやってくる人間はトオル自身に用がある者か、もしくは喫煙者だ。この男が喫煙している所は見たことないが、トオルは敢えてシカトした。
「珍しいじゃない。ア――」
「トオルだボケ」
「――……トオルが真面目に書類と睨めっこなんてさ。いっつも、任務無い時は睡眠時間だーっつって寝てるくせに」
 カカシは眠たげな目のまま、何でもない事のように訊ねてくる。純粋な興味なのかもしれないが、トオルにはこの男が小憎たらしくてたまらなかった。どう言ってやろうかと迷っていると、思いがけず横から声が掛かった。
「トオルのやつ、上忍師になったんだよ」
「上忍師って……下忍の担当上忍? トオルが?」
 くつくつと笑いながらアスマが言うと、カカシの眠たげな目が少しだけ見開かれた。トオルの中で、してやったりという気持ちと、複雑な心境とが鬩ぎ合っていた。
「しかもよ、取られたんだぜ、鈴」
「――っアスマ!」トオルが怒鳴ると、アスマは心底愉快そうにゲラゲラと笑った。

 カカシが真ん丸く目を見開いているのを見ていると、その右目も抉ってやろうかという気分になってくる。トオルは苛立ちを紛らわす為に、チッと舌打ちをした。トオルが見ている書類、それは部下となった下忍達の個人データだった。
「トオル、冗談でしょ」
「黙れその右目抉ってやろうか。正真正銘写輪眼のカカシになれるぞ」
 トオルは笑い続けるアスマに非難の目を向けたが、それ以上に目の前の同期が気に入らなかった。暫くして、カカシがぽつりと言った。
「下忍のサバイバル演習で鈴取られるとか……伝説の三忍以来じゃないの?」


   初任務は?


 次の日の朝九時、は遅れまいと全速力で第三演習場を目指していた。耳元でひゅんひゅんと風が唸る。
 遅刻しそうになったのは、任務がどれだけの時間がかかるか解らかったので、畑の作物やら薬草やらにたっぷりと水をやっておかなければならないし、戸締まりもいつも以上に厳重にしなければならないからだった。
 の実家は、薬草やらそれらを挽いて粉にした物を販売したりしている、いわゆる薬問屋だった。一族の初代当主から受け継がれてきた広大な土地には、毒にも薬にもなるような植物が所狭しと植えられている。しかし今のの屋敷にはの他に人が居ない為、これらの管理は全て一人に任されていた。
 まあ、家の事をしっかりと確認する事はアカデミーに通っている時と変わらなかった。だが、は重要な物を忘れていたのだ。額当てだ。忘れた事に気付いたのは家を出てからで、それから取りに戻った為、は家を出発する時間が遅れ、集合場所に着いたのはギリギリの時間だった。
 演習場の入口の板壁を背に、二人が立っていた。案の定、いのじろうが遅くなったに文句を言ったが、彼は突然上から現れたトオル先生に驚き悲鳴を上げた。現れた、と言っても先生は昨日一昨日と同じく透遁忍法を使っている(いのじろうが「先生! 透明になって近付くの止めろよな!」と叫んだから解った)。
「それじゃ、今から任務貰いに、受付行くから」
 トオル先生の声は何故だか愉快げに笑っているようだった。が、にはその理由が解る気がする。
 いつも透遁を使っている事は、チャクラもかなり消費するだろう。用心深くて、流石は上忍だ。……と最初は思っていたのだが、彼はどうやら人を驚かせた後の反応を楽しんでいるようだったのだ。はトオル先生が透明でいる事は、単なる趣味なのだろうとアタリを付けていた。そしてそれは実際当たっていた。

 やってきた受付場所には係りの忍が何人か座っていて、火影様も来ていたらしかった。
「ふむ……第四班だの」火影様の声だ。
 紙の擦れる音がする。巻物を開く音だろう。それに、僅かな墨の匂い。
 火影様は達第四班の下忍達三人に、任務の仕組みを説明してくれた。忍の階級にあわせて任務のランクを振り分ける事や、常に四人一組で行われる事などだ。はその耳障りの良い声をじっと聞いていたのだが、いのじろうは早くも集中力を切らしているようだった。貧乏揺すりらしき物をしている。もっとも頭の良い彼の事だから、聴いてはいるだろうし頭の中にインプットされてもいる筈だ。
「――というわけで、諸君には、下忍レベルのDランク任務が課される。……子供の小遣い稼ぎだなどと侮ってはいかんぞ? 諸君等の働きは、この里を潤すばかりか、依頼をこなす事によって里の者からも里外の者からも、信頼を得るという事に繋がる。木ノ葉を支える、立派な仕事じゃ。君達一人一人が木ノ葉の里という大木を支える、柱となるのじゃ」
 どうやら後に付け足された言葉は、いのじろうに向けられていたらしかった。大方、憮然とした表情を隠さなかったのだろう。彼からしてみれば、赤ん坊の子守や犬の散歩なんて、子供の小遣い稼ぎなのだ。

 が、上手く丸め込まれた事に三人が気が付いたのは、受付所を出た後だ。
「お主達には木ノ葉大川のゴミ拾いをやってもらおうかのう」


 川からムンムンと発せられているあまりの悪臭に、も思わず顔を顰め、鼻を摘んだ。油やらヘドロやらの臭いが混ざり合っており、もはや川の匂いではない。先程からいのじろうがギャーギャーと文句を垂れているが、こればかりはも同意したかった。は元から鼻が良い分、彼らより被害を受けていた為に尚更だ。
「ゴミ拾いじゃねーよ、コレ。ちくしょーあの猿顔ジジイめ――アダッ!」
「お前火影様に何て口利いてやがる」
 呪詛を吐き出したいのじろうを、トオルが遠慮無く殴った。鈍い音がして、いのじろうが痛みに悶えている気配がする。
「っかし……確かにこりゃひでえな。どんだけ掃除してないんだよ、これ」
 トオル先生が『これ』と言ったのは勿論、目の前に広がる木ノ葉大川だ。しかし大川なんて立派なのは名前だけで、不法投棄の定番場所となっている為に、実際は規模のデカいただのどぶ川だ。には見えはしなかったが、その鼻を突く異臭に、どれだけのゴミが捨てられているのかがよく分かった。
「が、頑張ろうね、君」少しだけ首を後ろにやって、スズリが言う。
「……ああ、そうだな」
 不満を漏らすのもこれで最後だと、は特大の溜息を吐いた。

「ほれほれお前ら、早くやらねえと終わんねえぞ」
 下に降りてもまだ戸惑っていた三人に、川の上からトオルが無責任な言葉を投げる。
「へいへーい。ってか、先生はやんねーの?」
「はあ? 俺がやるわけないだろバーカ。これはお前達下忍に与えられた、Dランクの任務。俺はお前らの監視アンド補助。やんなきゃいけねー義務はねえんだよ」
 口悪すぎじゃね、とボソリと呟いたいのじろうに、先生はドスの利いた声で何か言ったかと尋ね返す。初対面の時と違い、遠慮が無くなったのか猫を被っていたのか、今の彼はすっかり柄の悪いチンピラだ。焦ったような声で、何でもないです!といのじろうは叫び、スズリが小さく苦笑した。
「……取り敢えず、まずデカいのからだな」
「うん、そうだねえ」
 いのじろうの声にもスズリの声にも、嫌々感がひしひしと籠もっていた。
 も思わず漏れそうになった溜息を呑み込み、それから濡れないようにズボンをたくし上げ、腕の袖も素早く捲り上げた。いのじろうとスズリに少しも構わずざぶざぶと川に入ると、彼ら二人ともが唖然としたのが気配で解った。
「ほら、まずはデカいのなんだろ。早く取り掛からないと本当に終わらなくなっちゃうかもしれないぞ」
「う……うっせー! オメーなんかに言われなくてもなー、解ってんだよ!」
 いのじろうはそう怒鳴ると、負けじとサンダルをぽいぽいと脱ぎ捨て、を押し退けるようにして川に入った。スズリも後から続く。チクショーこんな任務さっさと終わらせてやる!と息巻いている彼の声を聞いて、もさっそくゴミ拾いならぬ粗大ゴミ拾いを始めた。
 コンクリートで覆われた川縁に腰掛けた上忍は、そんな彼らの様子を見て小さく笑いを漏らした。


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