ガクン、と一瞬トオル先生の体が揺れた。それと同時にいのじろうの体がドサリと倒れる。心転身の術が発動し、彼の本体は抜け殻になったのだ。スズリが「わっ!」と驚きの声を上げたので、も彼女と同じようにトオル先生の方を見つめていた。
 ちりんちりん、と鈴の音が聞こえた。


   合格? 不合格?


「受け取ってくれ、スズリ」
 にっと笑ってみせたトオル先生は、既にトオル先生ではなかった。いのじろうだ。別の人間が精神に乗り移ったからか、透遁の術は完璧に解けてしまっている。ぼふんと姿を現したトオル先生の顔は、想像していたより男前だった。その顔のままでにっこりと笑っているものだから、スズリは一瞬反応するのが遅れた。
 いのじろうは、ひょいと二つの鈴を放った。スズリがそれらをキャッチし、トオル先生の体をしたいのじろうは心転身の術を解く。
君、鈴だよ、鈴」
 ほらほら見て、と両手に鈴の紐を持ち軽く揺すると、彼は少々の間の後、「ああ」と言って口の端を持ち上げた。子供っぽかったかなと後悔していたのに、不意打ちの微笑みにスズリの心臓がどきりと跳ねる。思わず顔が赤らんだ時、隣にいきなりいのじろうが現れたので、スズリは「うひゃっ」と声を上げた。いのじろうは既に心転身の術を解いている。
「ナニその反応……」
 彼がそう言って白い目で自分を見たので、スズリは愛想笑いで誤魔化した。いのじろうは不満げにスズリを暫く見つめていたが、やがて目を逸らして鼻高々に言った。
「ってかマジに鈴奪えるとはなー。やっぱ俺って天才的?」
 うんうん!とヨイショしているスズリは、本心半分気まずさ半分だ。

 いのじろうが言った作戦というのはこうだった。まず、戦っていたを囮に使い、先生に隙が出来た時、スズリが新たに不意を付く。暫くやり合った後、いのじろうが手裏剣を投げ先生に避けさせる。反対側からスズリが飛び道具で攻撃すれば、先生は跳んで避けるか、それともクナイで弾くか手裏剣で撃ち落とすか、それとも何か別の方法で防ぐ為、何にしろスズリに向き合わなければならないのだ。そこでフリーになったいのじろうが心転身を放つ。
 簡単なように思えるが、実はこれはかなり難しい。まず心転身を成功させるには、トオル先生が攻撃を避ける方法を上手く誘導しなければならない。一対一の時には誰だって変わり身の術を使うが、二対一ならば話は別だ。攻撃を変わり身で避けたと思ったら、姿を現した時にもう一人に攻撃されるかもしれないからだ。その為に、スズリの攻撃を一度変わり身で避けさせる事も必要だった。姿を現した時に的確にこちらが攻撃できるという事を示しておかなければならかった。結果的にはの攻撃が上手く嵌ったのだが、スズリが一度先生が変わり身を使うまでずっと攻撃し続けるという事は作戦の内に入っていた。
 この作戦には攻撃のいなし方や着地点、そして滞空時間、それらを自在に操れる技術が誘導役に必要だ。手裏剣術に長けたスズリが、この作戦にはどうしても欠かせなかった。一人では変わり身で避けられる上に、術と術の間に隙が生じやすい。元々心転身の術は潜入の為の術だから、一人きりでまともな忍者相手に成功させるのはほぼ不可能だ。スズリが二日月の舞や手裏剣影分身が使えた事はいのじろうの計算に入っていなかったのだが、結果的には良い方向に働いていた。

「じゃあまあ」いのじろうがそう言って、スズリの右手を掴む。
「鈴は俺とスズリの物って事で」
 にっこりとした。ひどく気に障る言い方だった。スズリは彼のいきなりの行動に目を白黒させたが、が負けじとスズリの左手を掴んだ事で、思わず顔を赤くする。
「ふざけてるんじゃないぞ。お前の術が成功したのは、殆ど俺のおかげだろうが。だから鈴は俺とスズリのもんだ」
「ハァァ? これだからドベ二位は駄目なんだよ。解らねーの? スズリの手裏剣影分身に先生が横に跳んで避けた時から、もう勝負は着いてたんだよ」
「嘘吐くな。俺が先生を抑えてなけりゃ、心転身は成功しなかったろうが」
「俺の心転身の術は一族一早えーんだ。あの距離なら二秒あれば成功すんだよ。つまりお前の手助けなんか無くても、鈴は手に入ってたんだボケ」
「ッだとコラ……」
 二人の口喧嘩がヒートアップする毎にギュウギュウと両手が締め付けられるので、我慢強いスズリもそろそろ辛抱できなくなってきていた。
「ごめ、二人とも……手が痛いです」
 苦笑しながらスズリが言うと、二人は同時に手を放した。
「悪ィ」
「ごめん」
 狙ったかのように同時に声が発せられたので、二人はギッと睨み合う。
「ね、ねえ二人とも、喧嘩はやめようよう」スズリはそう言ったものの、二人は頑として聞き入れなかった。そのまま二人が少し後ろに跳んで距離を取ったので、スズリはオロオロしてといのじろうの顔を見比べた。
「前々から思ってたんだ。落ちこぼれの癖に、てめー調子乗りすぎなんだよ」
「ハッ……上等だ。どうせ鈴は二個しかないんだ。お前には忍者を諦めて貰おうか」
「そりゃコッチの台詞だぜー」言いながら、いのじろうはホルスターに手を伸ばす。
 同じようにして、が印を組んだのをスズリは見た。そしてその後の事はまったく解らなかった。かそれともいのじろうか、はたまた両人ともかが、「フゴッ」と呻き声を上げたのは聞こえたが。気付いた時にはトオル先生が二人の首根っこを捕まえていて、そして二人は額の上辺りを抑えていた。


 場所を移動した後も、まだ打ち付けられた頭は痛んだ。というか絶対コブになっている。が盛り上がっているであろう頭の上をさすると、それを見たらしいトオルが「お前ら、いつまでも根に持ってんじゃない」と不満げに言った。どうやら隣で、いのじろうも同じような事をしていたらしかった。
 には透遁を使っている時との違いがよく解らなかったが、いのじろうとスズリの様子からして、既にトオル先生は姿を現しているようだった。先程までと違い、二人が的確に先生の方を向いて話をしている。
 ここいら辺りで良いか……とトオルが呟いたのがには解った。
「てゆか何お前ら。俺心の中ですっごい褒めてたのに……仲間割れし出すとか有り得ないだろ。俺が敵だったらヤバかったよ、マジで」
 そう言ったトオル先生の声には、褒めていたというのも真実だろうが、それ以上に呆れが混ざっていた。は何も返事をしなかったし、いのじろうも一言も喋らなかった。そこでトオル先生が、わざとらしくハァと溜息を吐く。
「うっせーよ先生、鈴取られたくせにさー。合格だろ、俺は!」
 ジロッといのじろうの方を向いたトオルが、何かを誤魔化すように咳払いする。
「確かに、鈴は取られた。けどな、それはいのじろう一人の力じゃないだろう? ――この中で、下忍になるように俺が推薦するなら、それはスズリかな」
「え?」
「は?」
「何?」
 上から順に、スズリ、いのじろう、だ。
「スズリにはおまえ達にはない協調性がある――まあ、もう少し自分の意見を言えるようになると尚良いが……――個人個人にも、勿論技能は求められる。様々な能力があるが、それぞれが強ければ強いほど良いってのも間違っちゃいない。そういう点で行けば、お前達全員、下忍のレベルはとっくに超えてるよ。あんな頭回る下忍も、二日月の舞のできる下忍も、性質変化が二つ以上できる下忍も、俺は今まで見たことない」
 そこで、トオル先生は言葉を句切った。
「けどな、それ以上に大切なモンが有る。それを見極める為の下忍認定試験だ。……いのじろう、おまえ、この試験の目的解ってただろう?」
 試験の目的と言われ、には何がなんだか解らなかった。鈴を取る事が目的じゃないのか? 敵から目当ての物を奪い取る、その為の演習ではなかったのかとは瞠目した。ぶすっとした声でいのじろうが言ったので、は更に驚いた。
「……チームワーク、でしょ、先生」

 ――チームワークだって?
 そんな馬鹿な。鈴は二つ、生徒は三人。合格して下忍になれるのは、鈴を奪う事ができた二人だけ。仲間割れが起きて当然だ。と、そしてスズリが疑問に思った事の全てをトオル先生は説明した。
 この演習はそれが起きるように仕組まれた試験なのだと。
「俺達忍者にとって一番大事なのは、チームワークだ。常に班を組んで行動するからな。だから、それができていないと、どんな任務でも上手くいかない。逆に言えば、隊の息がピッタリ合っていれば、どんな任務にだって立ち向かっていける」
 トオル先生はそこまで言い、それから少し体を斜めにさせた。手を伸ばし、『何か』を指し示している。
「見えるか? あそこにある慰霊碑には、何人何十人もの過去の忍達の名前が刻まれている。任務中に殉職した、里の英雄達の名前だ。――昔、こんな話がある。とある小隊が、任務中に敵の忍者部隊に遭遇した。任務は今のお前等と逆の立場で、奪取した巻物を無事に里に持ち帰る事だった。どう見てもその敵の小隊は下忍中忍で構成された班で、なんて事はない、客観的に見ても充分にこなせる筈の任務だった。
 しかしとある男が言った。『俺なら一人でやれる』。その馬鹿は隊長の制止も押し切り、一人で敵に向かっていった。チームワークを乱したんだ。自分の力に溺れ、傲っていた。……まあ、上手く行っていたと言えない事もなかったかもしれない。途中までは。敵の忍者の三人が死に、残りは一人になった。そこでまた、救いようのない馬鹿が一人でソイツに向かっていく。最後の一人は何をしたと思う? 俺でもそうしただろう。お互い決死の覚悟だ。独断で向かってきた奴を捕まえる。『武器を捨てろ。巻物を寄越せ。さもなくばこの男を殺す』。
 後は想像に難くないだろう。木ノ葉の小隊は仲間の命と引き替えに、巻物を渡した。任務は失敗だ。しかもその敵の連中の援護部隊に追われ、その小隊は殆ど壊滅した。死んだ奴も居た」
 も、いのじろうも、スズリも、皆黙りこくっていた。
「あの慰霊碑には何十人もの忍達の名前が彫られていると言ったろう? 俺の親友……いや、親友だった奴も刻まれてる――チームワーク、それがこの試験の答えだ」トオル先生が言った。

 少しの間、沈黙が流れた。三人が三人なりに考え終わった頃、トオル先生が言った。
「――じゃあそういう事で。明日から任務だから」
「……え?」
「は?」
「ハアアアァァァ?!!」
 一番大声で叫んだいのじろうが、「何だよそれ、どーいう事だよ!」と先生に問い掛ける。先程の話の流れからなら、自分達は全員、下忍になる事はできない筈だった。忍になる資格が剥奪されるというのは嘘だったらしいが、アカデミー戻りになる可能性はないわけではない。トオル先生は答えずに「息ピッタリだねー、アハハ!」と誤魔化していたが、やがて三人からの無言の視線に堪えかねたらしく、口を開いた。
「るっせえ! 鈴取れたら合格だっつったろ! ……さっきも言った通り、お前ら術のレベルだけなら下忍、もしくはそれ以上だ。そりゃこの試験がチームワークの重要性を教える為だってのも本当だがな、鈴を取れたら合格ってのも事実なんだよボケ! 嫌なら嫌と言いやがれハイ良し居ない! 明日の朝九時第三演習場の前集合解散!」
 先生は一息で言い切ったかと思うと、派手な音を立てて消えてしまった。皆呆気にとられていたが、やがていのじろうが「逆ギレ……?」と呟いた。
「……何あんな怒ってたんだよ、先生のやつ……」
「ま、まあこれで、みんな合格だよね、ね!」
 がああと返事したのと、いのじろうがオウと言ったのが再び同時だった。また重苦しい沈黙が流れ、スズリがおろおろとしているのが解る。すると驚いたことに、いのじろうが小さな声で言った。
「悪かったよ」は彼の方を向いた。「……足手まとい扱いして」
 ぼそぼそと歯切れの悪いいのじろうの言い方に、は目が見えない事をひどく残念に思った。は普段から表情を変えないようにと努めていた。盲人が笑うと、間が抜けているように見えるらしいと知っているからだ。しかし、笑い方ぐらい知っている。出来る限り、ニッコリと笑ってみせる。
 す、と人差し指を立て、それから地面を指し示した。
「な、何だよ?」
「土下座」
「……てンめええええ人が下手に出てりゃいい気になりやがって! ブッ殺す!」
 演習場でぎゃあぎゃあ騒ぐ声が止んだのは、日が大きく傾いてからだった。


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