スズリはカーテンの隙間から入ってきた朝の日差しで、ぱっちりと目を開けた。それから体を起こして、んん、と体を伸ばす。当日を入れるか省くか、その他色々な考え方にもよるだろうが、今日から数えて三十一日前に、スズリはアカデミーを卒業した。つまり、下忍になって丁度一ヶ月が経ったのだ。
 今日も、目覚まし時計が鳴る前に起きる事ができた。
 すっかり癖になってしまっている手櫛でぞんざいに髪を整え、ふと枕元の時計を見る。その横には見慣れぬ写真立てがある。一瞬ぼうっとするが、すぐにそれが何かを思いだし、スズリはにっこりした。今日も良い日になりそうだ。

 第四班で撮った写真。スズリと、と、いのじろうの三人だけが写っている。トオル先生の姿はない。が、先生本人はフレームには収まっていると主張していた。写真はスズリ達三人をメインに撮られており、真ん中がスズリだった。気恥ずかしかったけれど、といのじろうを隣り合わせにすると必ず口喧嘩になる為、やむなくこうなった。
 少しだけ照れた顔をしながらもニコニコと笑っているスズリ、トオル先生が居るらしき方向をちらと見詰めたいのじろう、まっすぐと此方を見ている
 家で眠っていた、いつだかの誕生日に貰ったきらきらしたラメ入りの青いフレームではどうにもしっくりと来ず、スズリは新たに購入した木製の写真立てに四班で撮った写真を飾っていた。何の飾り気もないそれは、不思議と四班の三人に似合っている。スズリは再びくすりと笑い、パジャマを脱ぐと忍服に袖を通した。


   の幻術


 今日第四班に与えられた任務は、里の外にある火の国の博物館に展示品を運ぶ、輸送の任務だった。といのじろうは大八車を引き、スズリは一抱えもする木箱を運んでいる。重い荷車を押しながら(じゃんけんに負けて後ろ側になった)、は少し離れたところを歩いているトオル先生をそっと窺った。
「ええっと……あなた方だけなんですか?」
 依頼人の指定場所に着いた時、達に品物を受け渡した館長代理の男はそう言った。顔など解らないが、解る。きっと何度も達の顔を見比べ、困惑している筈だ。
 「はっはっは、まあそんなもんです!」「ご心配なく、姿は見えないでしょうが、我々の影に上忍が潜んで待機していますから」「私達これでも忍者ですから、重い荷物も大丈夫ですよう」と、第四班全員でそう畳み掛ける。代理の男は空気に流されて、「ええ? そうですか? それなら安心ですな、ハハハ」とそれ以上は追及しなかった。
 姿を見せていない上忍トオルは、実は三人の真後ろに堂々と立っているのだが、如何せん気配も何も察する事のできない一般人には全くそれと解らない。トオル先生は透遁を解く気がまったく無い為、依頼人との交渉は全て下忍任せだ。最初の頃は全く関与して来ない先生に、何か問題があったのかと達は不安に駆られたのだが、このやり取りは既にお馴染みの物になっていた。四班の面々が無駄に対人スキルだけが上がっていくのは、殆ど定めだと言っても良い。
 先生は大方、欠伸でもしているのだろう。何の根拠もないが、はそう思った。

 山の中を歩き、緩やかな上り坂に汗が滲んできた頃、それに一番最初に気が付いたのはだった。しかし正確な位置までは解らない。ほんの一瞬の後、いのじろうがピクリと反応した。
「……せんせぇー」荷車ががくりと揺れたのを感じ、は慌てて力を入れた。
「解ってる。だが、まずはそのまま歩き続けろ」
「え? え? 何がですかあ?」スズリだ。
 彼女の声が奇妙に潰れているのは、大きな木箱を抱えているからだろう。中には年代物の壺が入っているそうだ。
「誰かがコッチを見てるんだよ」今日トオル先生が喋ったのは、これでやっと三度目だった。「しかしはともかく、いのじろうまで解るとはな」
はともかくってなんだよ! はともかくって!」
 いのじろうは抗議の声を上げたが、先生は無視した。いのじろうは憤慨しているようだったが、それ以上の行動は起こさない。彼は空気を読むのが上手い。頭の回転が速いから、状況を判断する能力が優れているのだろうと思う。


「てめーらのその積荷、まるごと置いてってもらおうか!」
 川べりで休憩していた時、そいつらは現れた。ざっと十人ほどだろうか。言動から察するに、山賊か盗賊といったところか。トオル先生が何も言ってこないことから、この盗賊は達が相手できるレベルであるということなのだろう。
 上手いな、とは思う。
 盗賊の存在にやいのじろうが気付いたにも関わらず、先生が歩かせ続けたのは、彼らをこの川辺に誘い込むことが目的だったのだろう。下流付近の川岸にはさしたる障害物もないし、何より見晴らしが良い。奇襲は忍者の鉄則だが、有利な状況に持ち込むことも重要なのだ。
 見晴らしの良さはもちろんにはあまり関係がないわけだが、感心せざるを得ないのはその先生の考えをいのじろうがすっかり読み取ってしまったことだ。トオル先生は「歩き続けろ」と言っただけで、それ以上の指示は何も寄越さなかった。こういう時、は途方もない嫉妬心に蝕まれる。むかつく。

 粋がっている盗賊を見ても、あまり怖いと思わないのは何故だろう。いのじろうは濡らしたばかりの手をプラプラと振りながら、おもむろに立ち上がった。敵は十三人。どいつもこいつも強面だし図体も大きいのだが、それにしてはあまり脅威を感じない。むしろ、こちらが子どもばかりだからだろう必要以上にビビらせようとしている彼らの様は、ひどく滑稽に思える。スズリでさえ、盗賊達を白い目で見ている。気がする。
 実戦は初めての筈なのだが。
 いのじろうが得意とする忍術は、もちろん心転身の術だった。山中一族に伝わる秘伝忍術だ。各種の遁術は使えない。昔やってみようと思ったことはあるのだが(忍を志す男子なら、誰だって火遁や風遁に憧れる時期があるものだ)、センスが無いのか早々に諦めてしまった。もっともチャクラ不足がその最たる原因ではあるのだろうが、アカデミーでそういった遁術は教えないため、いのじろうは体得を諦めていた。そろそろもう一度修行に取り組んでみても良いと思う。
 ともかく、いのじろうの一番得意な術は心転身の術なのだ。心転身の術とは術者の精神を敵に乗り移らせる術で、スパイや偵察といった隠密行動に適した術だ。なので、大人数を相手にした戦闘では、正直なところあまり役に立たない。せいぜい、親玉を乗っ取って撤退の命令を出させるくらいだろうか。心転身の術だけを磨いてきたといっても過言ではないいのじろうには、忍ではないとはいえ、十人以上もの敵を一瞬で倒せるような術は持っていなかった。
 この任務が自分一人だけだったら、物凄く難易度が上がっていただろう。任務ランクで例えるならBくらいに。しかしこの輸送任務は例の如くDランク任務だった。命の危険を伴わない、軽度の任務。スズリやが居るからこそ、安心していられるのだ。
 ふと気付く。何だそれ、むかつく。
 山賊の件は二人に任せておけばいいだろう。非常に腹立たしいことだが、の得意とする忍術はどうやら中・遠距離攻撃のようだから、広範囲に広がる敵の殲滅には向いているのだ。自分はむしろ、もしかすると居るかもしれない十四人目を警戒しておいた方が良い。九割方その可能性は無いだろうが、忍者たる者その一割の可能性を無視するわけにはいかない。仮にその一割が正しかったとしたら、つまりそれは感知できない敵なわけで、凄腕の忍者ということになる。盗賊がより強奪を遂行しやすくするよう忍を雇うのはよくある話だ。盗賊を討伐するのに手間取って、思い掛けない伏兵に全滅させられました、じゃ、目も当てられない。やはり自分は臨戦態勢を取るだけに留めておいた方が良い。
 いのじろうはそう結論付けたが、やはり今度遁術を身に付けようと決意する。
「スズリ、あいつら何人だ?」
「え? ええと……十三人、かな」
「いやいや、自分で数えろよー」
「そうか、十三人か……」
 無視された。むかつく。
 ベラベラと脅し文句を並べる盗賊に気付かれないよう、小声で行われるその会話。いのじろうの算段通り、どうやらが動き出すようだ。最近、何となくではあるが仲間の性格が解ってきた。こいつ、結構考えなしの直情型だ。自分が言うのも何だが、チームワークというものを欠片も意識していないような気がする。
「もう一つ聞くが、こっちは風上だよな?」
 スズリと、そしていのじろうも頷いてみせると、は再び「そうか……」と呟いた。


 そこからは一瞬だった。ワーワーと喚いていた山賊も、武器を構えてニヤニヤしていた残りの連中も、急に倒れたのだ。理由は簡単だ。の幻術が発動したのだ。
 一人残らず縛り上げながらも、いのじろうは憮然とした表情を隠すことができない。いのじろうはが持つような広範囲に効く術を持っていないのだ。そもそも、どういう理屈で山賊達が幻術に掛かったのかも解らなかった。幻術の成績だって、悪くはなかった筈なのに。
「ちっくしょ……」
 気絶したままの山賊の一人を、思い切り縛り上げる。
「いつも言ってんだろ、口を動かす暇ァあるなら手を動かせ」
「……」
 なっ、と、肩を叩いたのはトオルで、やはりいつものように姿を消している。しかし今のいのじろうには、いつものようにオーバーリアクションを取る余裕がない。
「なんだ、元気ねえな」
「……先生ェ、さっきのも幻術なんだろ? どんな幻術だったんだ?」
の術のことか? あれは匂いを使って嵌めるタイプの幻術だ」
「匂いィ?」いのじろうは思わず振り返って聞き返した。もっとも、トオルの姿は未だ解らないが。「匂いって、嗅覚で嵌めるってこと?」
「ま、そういうこったな」
 いのじろうは眉を顰めた。忍の術には忍術、幻術、体術がある。幻術とは相手に精神的ダメージを与えるものだ。一族が幻術が得意な一族だということは知っている。しかし、幻術の中にも難易度がある。視覚や聴覚を利用した術が容易な筈だ。嗅覚で嵌めるなんて、リスクの方が大きいんじゃないのか。
 苦い顔をしているいのじろうを見たのだろう、トオルが付け足した。
の家は『幻術の開祖』、一族だからな。あの年でそこらの幻術使いより幻術のスキルがあっても不思議じゃない。というかおまえ、俺でなくに聞けよ」
 同じように盗賊を縛っているを見ながら、いのじろうは更に顔を顰めた。その後は特に何事もなく、無事に展示品を運ぶことができた。


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