例のあの戦いが終わった後、ホグワーツは一ヶ月も過ぎた頃には、既にいつもの日常を取り戻していた。破壊され壊れた箇所は、魔法省から派遣されたリセット部隊が殆ど直していったし、そうでなくとも、教員達がはりきって元通りにするよう努めていた。生徒達の方が柔軟に対応できていたらしく、暗い影を負った者は今では殆ど居なくなっていた。
 が、別の意味で生徒達は顔を暗くしている。テスト期間だ。
 ・レストレンジがむっつりとしたままで目の前の男、ネビル・ロングボトムを見遣ると、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「何回も教えているだろうロングボトム、そこはrじゃない、lの発音をするんだ。綴りだけなんだから、間違うなよ。それに、ほらそっちも。国際魔法使い機密保持法が制定されたのは1692年だ。692年じゃないだろう? それだとホグワーツが出来る前じゃないか」
 目を逸らしたままのロングボトムは、小さく口で何かをぼやいたが、生憎とには聞こえなかったし、気にもしなかった。
「丸暗記をしようとするからそうやって単純なミスを起こすのさ。君は、言っちゃなんだがそういう脳みその作りをしていない。何かに関連づけて覚えるだとか、そういった努力をしなよ」
「……君の教え方が悪いんだろ」
 ぼそりと、ロングボトムが呟いた。今度はちゃんと耳で拾っていたは、ひくりと目元を痙攣させた。


xx. Everyday Occurrence



   の日常


 めちゃくちゃ疲れる魔法テスト、通称NEWT。ホグワーツ生が受ける最後の試験であり、最も過酷な試験、それがNEWT試験だった。NEWTの出来次第で、生徒達の卒業後が決まると言っても過言ではない。
 七年生の達は、そのテストを二日後に控えていた。魔法省就職希望のは、NEWTで最高の成績を修めなければならなかった。それなのにこうしてロングボトムの勉強をみてやっているのは、偏に彼がを頼ってきたからだ。必死な形相の彼に、どこかしら優越感を感じ、は彼の願いを聞き入れてやったのだが、こうして改めて勉強に付き合ってやってみれば、ロングボトムは壊滅的に物覚えが悪かった。
「……随分な言いぶりじゃないか。自分がどういう状況なのか解ってるかい?」
「だって本当の事なんだ。君が頭が良いのは認めるけど、教えるのには向いてないよ。何を言ってるのかさっぱり解らない」
 それは、君の理解力が低いんだ。はそう思ったが、口には出さず、苦笑いを浮かべるだけに留めた。どうもは、ロングボトムの前で笑顔を作るのが苦手だった。ただ口角を上げて、目尻を下げるだけなのに。それ以上の反論をしなかったのは、言い合っている時間が惜しかったからだ。
 とネビルは図書室にいた。手近に資料が手に入るというのも理由の一つだったが、図書室に来た一番の訳は、もネビルも面倒事はごめんだったからだ。空き教室に居ようと、大広間に居ようと、この二人の組み合わせは何処に居ようとも目立ったのだ。なんならスリザリンかグリフィンドール、どちらかの談話室でだって構わなかったのだが、どちらかの寮で角が立つのは目に見えていた。
 普段なら図書室は閑散とした場所であり、少しの物音もしない程なのだが、こうしてテスト前になるとこぞって生徒達がやってくる為、そこら中で人の気配がし、物音がした。は暫く仏頂面のままロングボトムを睨んでいたが、突然ガタリと立ち上がり、その場を離れた。そして本棚を挟んだ、二つ向こうの机に向かって声を出す。
「ハッフルパフ、五点減点だ。此処は図書室だぞ、お喋りがしたいなら寮にでも戻れ」
 今までクスクスと笑い合っていた女子生徒達は、途端にびくりとして此方を向いた。彼女達はを見て、まだらに顔を赤らめたままそそくさと退散していった。減点したのは今日だけで六回目、一週間分合わせると十七回目だった。
 は無人になった机を見て、チッと舌を打ち鳴らした。

 座っていた場所に戻ると、顔は教科書に向けているものの、ロングボトムが目だけでの方を窺っていた。は無視して元の椅子に腰掛けたが、それでも彼が此方を見続けていたので、仕方なく問い掛けた。ちょうど、座ったばかりの椅子から伝わってくる生暖かさと同じような居心地の悪さだった。
「何だい?」
「八つ当たりだ」
「……私語をしていた彼女達が悪い」
 思わず怒鳴りそうになったはすんでの所で堪え、静かにそう言った。
 暫くの間とげとげした空気が流れ、その間はもネビルも一切口を利かなかった。で自分の勉強を進めていたし、ロングボトムは呪文学の公式を頭に入れようと四苦八苦していた。元より、はお喋りな方ではなかったし、ロングボトムもそうだった事も要因している。
 重苦しい雰囲気に満ちていたが、しかしながらは(彼の方はどうだか知らないが)それを面倒くさいだとか嫌だとかは、不思議と思っていなかった。
「珍しい組み合わせね」
 不覚にも、は顔を上げてしまった。誰の声だか解っていたのにだ。大人数で騒いでいる時だとか、こういう時ほど、は自分の育ちの良さを恨めしく思うのだった。反応を返さないわけにはいかないのだ。ロングボトムとそしてが、ぴったり揃って自分の方を向いた事の何が面白かったのか、ウィーズリーはくすくすと小さく笑っていた。
「やあ、ジニー」
 ロングボトムがそう言うと、ウィーズリーはにっこりした。
 当然の事ながら、は何も言わなかった。それ以前に、既に彼女を視界から外している。ウィーズリーはその事に関して気にするような素振りは見せなかった。とロングボトムの仲が良いわけではないように、とウィーズリーの仲も良好とは言い難かった。むしろ険悪だ。
「NEWTの勉強?」
「うん、そうなんだ。ジニーは図書室で何を? ハリーと一緒じゃないの?」
「ええ。彼ったら、箒に夢中なの。ロンと一緒にずっとクィディッチしてるわ。まあ今までずっとできなかったんだから、仕方ないけど」はぁやれやれと、ウィーズリーは肩を竦めてみせた。
 は危うく、「は?」と間の抜けたの声を出してしまう所だった。そうならなかったのは、が彼らの会話を単に聞き流していたからだろう。ウィーズリーがロングボトムに話した事から察するに、ポッターはそれまでの逃亡生活の反動か、ここ最近ずっとクィディッチやら何やらで、遊び呆けているらしい。勉強もせずに。
 は少しだけ苛立った。まったく、就職が決まってる奴は気楽だよな。
 ポッターは卒業と同時に魔法省の闇祓い部に行く事が決まっている。ロン・ウィーズリーも同様だ。もっとも彼らはこの一年の間殆ど授業を受けていないのだから、今更NEWTの為の勉強をしたところで結果は解りきっているのだが。グレンジャーはというと、彼女の方は魔法省からのスカウトを蹴り、留年の形でホグワーツに残る事を決めていた。
 がそれらの事を知っているのは、今の状態のように周りがべらべらと喋っているのを耳だけで聞いていた結果によるものだ。決して本人達と話したわけではない。彼らの事をどうこう思っていたわけではないが、英雄とそのお仲間達の武勇伝にはうんざりしていたのだ。同じ空間に居るだけで反吐が出てきそうだ。
 が気付いた時には、既にウィーズリーは同じ机に腰を下ろしていた。ロングボトムの手元を覗き込んでいる。は、まだ座っても良いと言っていなかったのに。しかし言ったところで彼女の事だから、何だかんだ言って勝手に座り込む筈だ。は無駄話に花を咲かせている彼らを見て、目を細め、内心で溜息を吐いた。


 が実はダンブルドア軍団側として、この半年の間動いていたのだと学校中に知れ渡ってからというもの、の生活は一変していたと言っても良かった。
 スリザリン寮において、は一人で過ごす事の方が多くなっていた。以前まではレストレンジ家のお零れに与ろうと、の周りには常に人が居たのに、それがパッタリと無くなったのだ。スリザリン生達はの立場が急変した為に、どう接すれば良いのかと戸惑っているらしかった。
 彼らの気持ちは、にとって理解しがたいものではあったが、特別に寂しいとか、妬ましいとかは思わなかった。
 顔を合わせれば会話をするくらい、そんなアッサリした関係を築いていたドラコやノットは、がダンブルドア軍団に協力していたと知って、驚いてはいたものの、特にこれと言って態度を変えたりはしなかった。そんな彼らは、どこか呆れたような視線もに寄越したが。
 その代わりに出来たのが、ロングボトムやウィーズリーを始めとする、いわばポッター側の人間との付き合いだ。がダンブルドア側だと暴露してからというもの、今のようにダンブルドア軍団のメンバーがの方へとやってくる事は稀ではなかった。はフィネガンだとか、マクミランだとかに話し掛けられたりすると、それまでの関係上、どうしても微笑むのがワンテンポ遅れてしまうのだった。

「ロングボトム――」は、自分の声がいつもより低かった気がして、ほんの少し驚いた。理由が解らなかった。しかしそれは一瞬だけで、すぐにいつも通りの自分を取り繕う。「――ほら」
 先程までバラバラと捲っていた参考書を、はロングボトムに投げるようにして差し出した。彼は何事だろうという表情をしながらも、素直にその本を受け取る。
「へえ、案外優しい所あるのね、レストレンジって」
 小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら(もっとも、の解釈によるものだが)ウィーズリーがそう言った。はウィーズリーから視線を逸らしていたが、ロングボトムがの意図を理解できずに困惑しているのは見えた。が、次第にウィーズリーが顔で笑うだけでなく声を出して笑い始めたので、キッと睨み付けた。
「図書室では静かにしろ、ウィーズリー」
「あらお生憎ね。貴方の声も充分大きいわよ」
 ムッとした様子で、しかしまだ面白がっているのは変わらないようで、ウィーズリーがそう言い返した。は彼女を睨み付けていたが、あちこち折り曲げてある本の内容を理解したロングボトムが「ありがとう」とはにかんだので、は暫く彼を見詰めてから、今度こそ盛大に溜息を吐いた。
 しかしやはり、そんな自分や目の前の彼らの事を、嫌だとかは思っていなかった。


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