先輩、結婚して下さい」
「はい……?」


 は目の前の壁を見上げた。進清十郎、我らが王城ホワイトナイツの要たる男だ。ついでに、壁はラインという意味ではない。彼はLBだ。壁のようにでかいという意味だ。
 とてつもない言葉を聞いた気がするが、気のせいだろう。はそう納得する。納得するが、目の前に立つ男の視線が痛い。
「……えーと、進、くん?」
「結婚して下さい」

「えええええ!」
 気のせいではなかった。そして聞き間違いでもなかった。
「ちょ――ちょっと待って、一回落ち着こう!? 何で結婚!?」
 いつもの無表情で聳え立つ進を見上げながらは言葉を紡いだが、どちらかというと、進へというより自分に対しての言葉だった。戸惑っているのは進ではなく、だ。
「今日が先輩のお誕生日だと伺いまして」
「うん、そうだね!」
「それで日頃お世話になっている先輩に、何かお礼をしたいと」
「ああうん、そうだね、進なら考えそうだね!」
「考えてみたのですが名字くらいしか思いつきませんでした」
 淡々と、進が言う。「だから結婚して下さい。」

「はっ、なっ、何で名字!? 何でそこで名字!? もっとなんかなかったの!?」
「前に、進という名字が素敵だと」
「え!? ――あっ、あああああ、うん、うん、言ったね! そうだね、私言ったね!!」
 一瞬、進が何のことを言っているのか解らなかったが、進にじっと見詰められ、もとい睨み付けられている内に思い出した。確かに、進という名が素敵だと、言った覚えがある。
 いつの頃だったか――多分、中学生の時じゃないかと思うのだが――めきめきと実力を発揮し始めた進に対し、は言ったのだ。「進くんって進むって書くんだね、すごい良い名字だね」、と。
 あれは、「進」という名字が進という男にぴったりだと思ったから言ったのだ。別に名字自体を褒めたわけではない。そもそも、よくもまあ言った本人ですら忘れていたようなことを覚えていたものだ。それが進なのか。
「ですから先輩、俺と結婚し――」
「でもそれで結婚とか! 進くんって凄いね、ほんとに! 飛躍しすぎじゃない?! びっくりしたわ!」
「……それは、俺と結婚するのが嫌、と」
「なっ、違っ――」
 思わず、は口籠った。
 実の所は、進が「結婚」が何たるかをまさか解っていないのでは、と思っていた。彼は妙に天然なところがあるから。しかし一瞬、が否定の言葉を発した際に、彼が寂しそうな目をしたのを、は目撃してしまったのだ。解っていないわけではないらしい。
「あああああ――もう!」が言った。「色々! 色々すっ飛ばしてるけど違う! 嫌じゃない、嫌じゃないから!」 
 取り返しのつかないことを、言ってしまった。
「とりあえずそこで笑い堪えてる高見と大田原! 前出ろ! 喧嘩なら買うぞ!」
 の言葉を合図に、大田原が笑い始めた。もっとも、隠れて見ていたのは高見と大田原だけではなかった。部員の殆どがそれぞれ違った反応を示しながら、達のやり取りを窺っていた。顔から火が出るとはこのことだ。

 ちりぢりになって逃げて行った高見達を追い掛けようと、踵を返せば肩を掴まれた。
先輩」進である。
 140キロものベンチプレスを持ち上げる男とは思えないほど、ひどく優しい力だった。彼の戸惑いが伝わってくるようだ。もっとも、動けはしないのだが。逃げた部員を追うのを諦め、は再び進へと向き直る。
「何? まだ何かあった?」
「今度から、先輩と呼んでも良いでしょうか」
「はっ!? ――あ、ああー……うん、何かもう、うん、良いよ……」
 ありがとうございます。と、そう言った進が、少し微笑んだような気がした。

「……それから」
「うん?」
「俺のことは清十郎くん、と」進が言った。
 言葉を切ったのか、それとも違うのか。言いたいことは解るのだが、は改めて進を見詰めた。いつもと変わりない鉄面皮だ。しかし僅かだが、その顔は普段よりも赤い気がする。
「あー……」自分の顔までもが赤くなったのを、は嫌でも感じた。


「清十郎くん、結婚できるのは十八歳からだからね」
「む」



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