の前に立つ伊佐奈は、その気だるげな目をぱちりぱちりと二度瞬かせた。
 だって嬉しいものは嬉しいのだ。まさか誕生日が同じ日だなんて。彼もそう思ってくれる、とは思わない。二十代後半男性が誕生日など気にしたりしないだろうし、何より伊佐奈だ。興味の欠片も持っていないだろう。なので、は勝手に喜ぶ。伊佐奈さんと誕生日が同じだなんて嬉しい。超嬉しい。
 にこにこと笑うを見て、伊佐奈は何を思っているのだろう。まあ、多分、面倒くさいなとか鬱陶しいなとかその辺だろう。しかし今二人が居るのは水族館の一般展示場だ。当然他の客が居る。まさか伊佐奈だって人前でキレたりはしまい。裏では独裁者として君臨している伊佐奈(フカ談)だが、表の世界ではちょっと現代人には早過ぎた感じのファッションをしているだけで、実に人当りの良い水族館館長なのである。
 ついでに、伊佐奈の誕生日が今日だと教えたのはサカマタだった。どうして知ったのかと聞かれた時は、ネットで見たとか適当にはぐらかそうと思っている。は幸運なことに未だそういう行為を受けたことは無いのだが、彼がとてつもなく自分勝手でその上暴力的だということ(ドーラク談)は知っているのだ。
 ああ、誕生日に丑三ッ時水族館に来て良かった! 二月一日が誕生日で良かった!
 の脳内がおめでたい事になっているなどつゆ知らず、伊佐奈は「一緒で嬉しい、か」と小さくぼやいた。相変わらず、この女子高生の考えることは理解不能だ。
「伊佐奈さん、何か欲しいものとかありますか?」

 暫しの間、伊佐奈は無言だった。既に彼はの方を向いてはおらず、何を見るでもなくただ目の前の巨大水槽を眺めている。この円形フロアの水槽は全て繋がっていて、沢山の回遊魚達が泳ぎ続けられるようになっている。マグロの群れが目の前を通るたびに光が揺らめき、伊佐奈の顔さえも微かに揺らめかせた。も伊佐奈に倣い、面前に広がる造られた海を眺める。そういえば、どれが鉄火マキだろう。気になる。
 出し抜けに伊佐奈が口を開いた。「――金」
「毎回チケット買えよ。パスポートじゃなく」
「え、ええー……それはちょっと」
 伊佐奈を見上げるが、彼の目は相変わらず水槽へと向けられている。その黒い瞳からは何の気持ちも読み取れない。ただ、光が反射して時々その目がきらりと光って見えるのが、無性に嬉しかった。
「伊佐奈さん、私、一応高校生なので、此処に来るたび数千円払うのはちょっと厳しいななんて」
 思ったり思わなかったり。ごにょごにょとが言う。いや待て、たかだか二千円でこうして伊佐奈に会えるのだと考えれば安いものじゃなかろうか。あれ……なんだろう……何かそういうプレイの一環みたいな……。
 いやまさかそんな、と、悶々と考えているを見て、伊佐奈はふっと口の端を上げた。もちろん彼の口元はヘルメットに覆われているので、その微かな笑みはには見えなかった。
「貧乏人なんだな」
「ひ、ひどい……」
 は、ちょっとだけ泣きそうになった。


 考えた末、はぬいぐるみを購入することにした。しかも特大の。別に伊佐奈にあげるわけではなく、その購入が丑三ッ時水族館の売上に繋がり、結局は伊佐奈へのプレゼントの代わりになるのではないかと思ったのだ。なかなか良い案だと思う。流石に現金を渡すのは嫌だった。流石に出来ない。その考えを伊佐奈に告げた時、特に嫌そうな顔をしなかったので(嬉しそうな顔も勿論しなかったが)やはり良い案だと思う。というか多分彼は呆れた顔をしたのだと思う。まあ嫌われなければそれで良いのだ、うん。
 年齢差のせいか、は妙なところで割り切っている。は愛に見返りを求めない。一緒に居られたらそれで良いと思っている。だから伊佐奈に「ウチに来る時は俺に知らせろ」と言われているその真意に気付かないのだ。「お土産の売店ってあっちでしたよね!」と逆方向に歩き出したを見て伊佐奈が吐いた溜息の、本当の理由をは知らない。

 ――や、まあ、伊佐奈さんは呆れてたかもだけど。
 土産物売り場の片隅、ぬいぐるみが並べられている棚の前で、は考える。一口にぬいぐるみと言っても大小様々なものがあって、大きなものは、それこそ高校生には到底手が出せないような値段なのだ。よっぽど欲しいと思わない限り、手の出ないほどに。とて小さなものならいくつか買ったことがあるが、抱いて寝れるくらい大きなものは持っていない。一度、こういうぬいぐるみを何の気兼ねもなく抱き締めたいと思っていた。言い方は悪いかもしれないが、ちょうど良い機会だった。さようなら、私の諭吉さん!
 大きなサイズのぬいぐるみを見比べながら、ふと白と黒のぬいぐるみと目が合った。
「じゃ、これにしようかな」
 言いながら、ちょっとそのシャチの口先に触ってみる。手触りも最高だ。人気の水族館は魚だけでなくこういう展示以外のものも一級品なんだなとは一人頷いた。そういえば、丑三ッ時水族館のシャチはサカマタの他に居ただろうか。するとこれは、サカマタさんモデルなのだろうか。しかしポップを見ると、メロンちゃんと書かれていた。可愛い。
「すみません伊佐奈さん、このシャチを取ってくれませんか?」
 そう言って、は背後の伊佐奈を振り返る。特大サイズのぬいぐるみは一番上の段に飾ってあった為に、には手が届かなかったのだ。いや届くには届くのだが、無理に引っ張れば他の商品を落としてしまいかねない。
 は、おやと思った。
 が手を伸ばしていた先、シャチのぬいぐるみを見据える伊佐奈が、ほんの少しだけ不機嫌そうに見えたのだ。先程回遊魚の水槽を眺めていた時の無表情とは何だか違う。何が違うんだろう。まさかもっと高価なものを買えということか。それともまさかこの特大を複数個買えということか。もしそうなら、今度から彼のことは金の亡者と呼ぶことにしよう。心の中で。
――」伊佐奈が呟いた。
「はい?」
「――左、の……クジラにしとけ。クジラに」
 緩やかな動きで、伊佐奈がすいと指を差す。その真白い指の先、シャチのぬいぐるみの隣には、クジラのぬいぐるみが並べられていた。シャチと同じシリーズのものだったが、シャチがはっきり白と黒でデザインされているのと違い、クジラの方は柔らかな灰色をしている。クジラの方が値段が高いのかと思えば、そういうわけでもない。
「伊佐奈さん、クジラお好きなんですか?」
 鯨の呪いを知らないはそう尋ねる。伊佐奈は何も答えなかった。
「それじゃあクジラにしますね。私、クジラも好きです」
 たまたま目に入っただけで、特にシャチが好きなわけでも、思い入れがあるわけではない。伊佐奈がクジラを好きなのだろうというその考え自体は間違っていたが、どうせなら伊佐奈が勧める方をと、はあっさりクジラのぬいぐるみを買うことに決めた。その時、伊佐奈が微かに微笑んだ。今度はも彼の方を見ていたので、はっきりとそれが解る。明らかに、彼の目が笑みを作った。穏やかなその微笑みに、は顔を赤くした。

 はついにこの特大クジラの購入をと意気込んでいたのだが、その覚悟を知ってか知らずか、そしてどう心変わりしたのか、伊佐奈が買ってくれた。「お前も、誕生日なんだろ」と、どこか吐き捨てるような物言いだったが、は心底嬉しかった。「ありがとうございます!」と何度も礼を言って、それからその優しい目をしたクジラのぬいぐるみを抱き締めた。



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