拝啓、母上。俺は今日死ぬかもしれません。
 親不孝をお許し下さい、なんつってみたりして。は台所に立つお妙を見遣った。惚れている女の子が自分の為に食事を作っているという、なんとも言えないシチュエーション。ここで行動を起こさなくては男が廃るというものだ。
 しかし男が廃れようとどうだって良い。帰りたい。屯所に帰りたい。実家でも良い。
くん〜?」
「はいィっ!」思わず、副長に名を呼ばれた時のように返事をしてしまった。
「朝ご飯、もうすぐできますからね〜」
「ああ……」は口籠った。「ゆっくりで良いよ、妙ちゃん……」
 小さな声で言ったので、お妙にはおそらく聞こえなかっただろう。ふんふんと鼻歌が聞こえてくる。どういう理由からか(何となく想像は付くが)上機嫌らしい。本当ならここで、は幸せを噛み締めるべきなのだ。しかしその心臓は嫌な意味でドクドクと脈打ち、体の芯から冷え切って、それなのに冷や汗が次から次へと流れてくる。
 お妙ちゃんが俺の為に朝ご飯を作ってくれている。朝ご飯を作ってくれている。
 問題はそこだ。

 お妙の料理は、八つ橋という名のオブラートに包みこみ、精一杯の思いやりを持って言えば、ひどく前衛的だ。誰も真似できない。は決して料理が下手というわけではないが、真似できない。何をどうやっても。彼女が作る料理と言えば、代表作として卵焼きが挙げられるが、からしてみれば、それは化学変化を起こしてしまった卵であり、卵焼きとは言えない。何でもそつなくこなす彼女が、料理に関してだけは、寺子屋の時から成長しない。むしろ悪化している。
 そんな彼女が、に朝ご飯を作ってくれているのだ。は昔からお妙の事が大好きだ。好きで好きでたまらないのだ。年齢=片思い歴と言っても良い。しかし、それとこれとは別だ。帰りたい。
 今のの気持ちは、死刑宣告を受けた時のようと言えば解ってもらえるだろうか。
 何が嬉しくて、暗黒物質とも言うべき物体を食べなければならないのだろう。お妙の料理を口に含んだら最後、生きて帰れるかは解らない。
 おそらく、お妙からしてみれば、真選組で頑張っている幼馴染に対する、ねぎらいなのだろう。幼馴染の誕生日、何から何まで世話を焼いてやる、その一番手が朝ご飯なのだ。ついでに二番手は昼ご飯だ。確実に死ぬ。致死量を超えてしまう。
 しかし笑顔のお妙を目の前にして、が断れるかと聞かれれば、答えはノーだ。だからこうして、朝から志村家に来ている。ちなみに、新八は家を空けていた。彼はの気持ちを知っているので、彼なりの配慮かと言えば、そうではない。単に、あの万事屋に(言ってはなんだが)珍しくも仕事が入っていただけだ。それに、はどちらかと言えば新八に居て欲しかった。何故かというと、唯一の良心が居ないとなれば、明日本当に日の目を見れないかもしれないからだ。


 そうこうしている内に、刻一刻と時間が過ぎ、お妙がついに、料理という名の科学実験を終わらせて戻ってきた。彼女が手に盆を持ち、その盆には器がいくつか乗っているのが見える。そして、その器からは異様な煙が昇っている。ハイ俺死んだ。
「お待たせしちゃったわね」
「いやあ、全然だよ妙ちゃん」はぎごちなく言ったが、お妙は気付かなかったらしい。
 ちゃぶ台に置かれたのは三皿、見事な黒米が持ってある茶碗と、汁も具も真っ黒で何が何だか解らない味噌汁と、それから可哀想な卵だ。黒い。世の中には牡丹餅だとか、海苔だとか、キャビアだとか、黒い食べ物は色々あるが、そういうのは、こういう暗黒のような真っ黒さではない筈だ。しかも、どれもが黒くそして異臭を放つ煙を上げている。何これ怖い。
「ごめんなさいねー、ちょっと焦がしてしまったんだけど、まあ味は変わらないから」
「いやあ、全然だよ妙ちゃん」は、先程と同じ言葉を口走った事に気が付かなかった。
 焦がしたけど味は変わらない、だと……。それは見た目が黒くなくとも味は奇天烈だという事か、それとも普段はもっとマイルドな黒さという事か。訳の解らない事が頭の中をグルグルと駆け回ったが、ついに恐れていた瞬間がやってきた。

「それじゃあ……――」はゆっくりと言った。何かの拍子に、この食卓が爆発してしまわないかと内心で思っている為、ひどくゆったりとしたスピードになってしまっている。しかし、お妙は気にしていない。遅かろうと早かろうと、が自分の作った朝食を食べ、そして感想を言ってくれる事を解っているからだ。「――……頂き、ます」
 途中、どもってしまったが、お妙は微笑むだけだった。
 は箸を取りはしたが、最初の一口目をなかなか踏み出せない。
「あっ」お妙が声を出した。は顔を上げ、お妙を見る。「ごめんなさい、ちょっと待って」
「お箸を貸してちょうだい、食べさせてあげるから」

「……は……?」は、一瞬、彼女が何を言ったのか解らなかった。「いや大丈夫、ちゃんと食べるよ」
「何を言っているの? 今日は誕生日でしょう? だから、私が食べさせてあげるって言ってるのよ」
 瞬間、は真っ赤になった。
「いやいやいや何を言ってるんだ妙ちゃん、いくら僕だってそんな――」
「うるせえな、食うのか食わねえのかドッチなんだ、あぁん?」
「すいませんでした!」ビシッと箸を差し出してしまい、はすぐに青くなった。


「じゃあ、はい」お妙がニッコリして、箸を差し出した。微笑んでいる。
 黒塗りの箸の先には、黒焦げの可哀想な卵だ。
 まさしく『はい、あーん』の状況に、は赤くなるやら青くなるやら、お妙の意図が解らないやら、誰かコレを止めてくれと思うやら、色々な意味で死にそうだった。二人きりというこの場面でなら、は何の躊躇もなく『あーん』ができる。恥ずかしいだとか、そんな事は一切ない。ごっこでも良い、お妙といちゃつけるなら。しかしながら、彼女の焼いた卵焼きを食べるには、やはりそれ相応の勇気が要るのだ。
「どうしたの? ほら、あーん」
 にこにこにこ、今の彼女に擬態語をつけるならそんな具合だ。
 幼い頃に新八の世話を焼いてやっていた名残か、それともスナックすまいるでは日常茶飯事なのか、男と意識していない相手だからか、お妙には一切の恥じらいがない。十八才の男女が、何の照れもなく『はい、あーん』なぞ、普通はやらないだろう。十八才といえばアレだ、何か色々できるようになる年だ。免許も取れるしエロ本も買える。それなのに、だ。
「……あーん」
「はい、あーん」
 お妙が左手を添えたまま、箸をすっと差し出し、は口を開けた。今やからは羞恥心は消えており、腕から零れ落ちんばかりの不安だけが残っている。このままバッタリと気絶してしまって、ずっと目が覚めなかったらどうしよう。とりあえず、頑張れ、俺。


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