空を飛んでみたいのだ、とが告げた時の彼の顔付きは、「悪い物でも食べたのだろうか」とでも言うような、どこか心配そうな表情だった。無論、そういうわけではないし、園長のロケット人参を食らって頭がどうにかなってしまったというわけでもない。
、人間は空を飛べないぞ」
「わ、解ってるよ! そうじゃなくって、えっと……」は急いで否定したものの、どう言えば伝わるのかてんで解らない。
 タカヒロは小首を傾げてみせた。
 余談だが、以前、が彼に言ったことがあった。顔が怖い、表情が怖いと。タカヒロはオジロワシだ。鳥類独特の顔付きに加え、猛禽類だから目付きの鋭さは尚更だ。出会ったばかりの頃は、彼のその顔がいつも怒っているように見えて、ひどくビクビクしていた。長く付き合っている内に、些細な表情の変化も読めるようになってきたが、タカヒロがああやって解りやすい動作をするのは、への配慮が形になった結果だった。
「何ていうか、勿論わたしは空を飛べないし、飛行機にも乗った事ないから、ほんとに空を飛んだ事がないわけで……」

「タカヒロには解んないかもだけど、空を自由に飛びたいってのは、人間誰しも持ってる夢なわけで……」
「……」
「だから、もしタカヒロさえ良ければ、抱えて飛んでみせてくれないかなーなんて……」
 タカヒロの顔から心配が消え、呆れだけが残った。
「……どこまでだ」
「えっ……うそ、本当に?」
 タカヒロは頷いた。
「やったあ、ありがとうタカヒロ! 大好き!」

 途端にニコニコとし出したを見て、タカヒロはハァと小さく息を吐き、そしておもむろに翼を広げた。これが誕生日のプレゼントだからなと言いながら。勿論、は勢いよく何度も頷く。
 はタカヒロの翼が大好きだった。大きくて格好良いし、手触りも滑らかで羨ましい。いっぱいまで開かれていると、圧巻の一言に尽きる。


「タカヒロ……」は期待に胸を高鳴らせ、そっと彼を見上げる。
「ああ」タカヒロは呼吸するのと同じくらい何でもない事のように、スッと空に舞い上がった。
 そして、その両腕でがっしりと掴む。の肩を。
「ぎゃっ」言い様のない浮遊感。「ぎゃああああああ! 降ろして、降ろしてええええ!」
「うおおおっ……! ちょっ、暴れんな馬鹿!」
 ほんの数十センチ、足が地面から離れただけでこの様だ。
 傍から見れば馬鹿に見えるだろうが、二人は必死だった。タカヒロがの肩を掴んだまま、そしてが彼の手首を掴んだまま、ジタバタと暴れるものだから、当然飛び上れる筈もない。ふと気付いた時にははよろめき地面に足をつけていて、急に重心が軽くなったタカヒロは、コントロール出来ないまま、近くの木に激突した。

 大きな鈍い音がした後、くしゃくしゃになったタカヒロが木の傍でのびていた。
「ご、ごごごごめんタカヒロ!」は慌てて駆け寄った。
 タカヒロは何も答えなかったが、意識はあるようで、体を起こすと頭を押さえた。見たところ、怪我らしい怪我はなさそうだった。羽も手足も無事のようだし、血も出ていない。全身の羽毛が逆立っているが、は気付かなかった事にした。
「どうして暴れたりしたんだ。空を飛びたいって言ったのはだぞ」タカヒロは怒っていた。
「ごめん。でも、まさかだって掴まれて、そのまま飛び上るなんて思わないじゃん!」
 頭を撫でさすりながら、タカヒロは訝しげにを見た。
「他にどう飛ぶんだ。は園長みたいに跳び乗れないだろ、それにバランス感覚も無い」
 それだけ頭が痛いのだろう、気遣いの欠片も無い言いっぷりだ。
「ほら、その……お姫様抱っことか……」
「おひ……何?」
「え、知らない――?」は瞠目した。「――とにかく、もっと違うやり方が……」
「こう、背中と、膝の裏を持って、横抱き、みたいな」
 はタカヒロの目の前で、目に見えない赤ん坊を抱くように手を動かした。
 タカヒロは、納得したような全く分かっていないような、そんなどっちつかずの表情で、黙ってを見詰めていた。頭を押さえていた右手がやっと離れた頃、タカヒロは口を(無論、嘴をだが)開いた。
「それで、俺がおまえを支えて飛ぶのか?」
「うん……支えてっていうか、抱えてっていうか……」
 タカヒロはあからさまな溜息を吐いた。
「俺の手は鷲掴みにする為のもんであって、そうやって支えられるような腕じゃない。何なら飼育員に聞け」
「そ、それぐらい、華ちゃんに聞かなくったって解るよ!」
 がそう言うと、タカヒロは半開きになっていた両翼を畳み、改めてを見た。
「じゃ、何でそんな無茶振りするんだ」
「何でって……だって……」は口籠った。
「だって?」タカヒロが優しく問い質す。
「……だって、お姫様抱っこしてタカヒロに飛んでもらうの、夢だったんだもん……」

 タカヒロは暫く何も言わなかった。形の変わる筈のない嘴が、歪められているように見えるのは気のせいだろうか。呆れているのか、それとも他の理由からか。何にせよ、言うべき事が見付からないらしい。長い沈黙に、耐えられなくなったのはだった。
「うああああっ、タカヒロの馬鹿あああああ!」
 ウワバミさーん!と泣き叫びながら、は走っていった。タカヒロは呆然としながらも、他の雄の所に行かなかっただけマシかとゆっくり考える。やがて颯爽と翼を広げると、本当にどこにも異常がない事を確認してから(何せ、頭には大きなたんこぶができていた)、さっと空に舞い上がった。明日は腕の筋肉痛に悩まされる事になるのではないかと、うっすら考えながら。


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