は基本的に、誕生日というものは多少の我儘が許される日ではないかと思っている。誰かに祝ってもらうのは嬉しいし、その逆もしかりで、誕生日を祝いたいとも思う。だからこそ、その人を少しでも喜ばせてやりたいから、ちょっとしたお願い事なら喜んで頼まれる。掃除当番を代わってほしいとか、ジュースおごってとか。そして、その気持ちを他人にも押し付けてみたくなるのだ。ほんのちょっぴりだけ。
 冷静に考えてみれば、彼には人間の常識は通じないだろう。しかしその素っ気ない態度を目の前にして、つい言ってみたくなった。
「ね、ドーラク。あたし今日が誕生日なの」
「ハァ?」
 が思った通り、どうやら彼にとって、が誕生日だとか、そういう事は全く関係が無いらしい。やはり素っ気ない。
「ね、いーじゃん、ちょっとぐらいギュッてさせてよ」
 二人が居るのは照明管理棟で、ドーラクはいつものように館内の照明の管理、はその傍で彼の暇が出来るのを待っている。二言目にしてようやく、ドーラクはその視線をへと向けた。仮面に隠された彼の目線を解るようになったのは、が彼に付き纏い始めてかなりの時間が流れたからだろう。
「嫌だね、ギシギシ」
「ケチ。誕生日なのに」
 はそう言うと、回転式の椅子をぐるっと半回転させ、ショースタジアムを見下ろした。僅かに入る日の光を受けてキラキラする水面と、がらりとした客席が見える。今は開館時間ではあるが、ショーが始まるまでにはまだかなりの時間がある。お客が来ていない今の時間だけ、はドーラクと会う事を許されている。
 ドーラクが、の『お願い』を断るのはいつもの事だ。十回に一度くらいは、もしかしたら言う事を聞いてくれるかもしれないが、彼にとって、の言う「好きだから抱き着きたい」というのは理解し難い(まあ、なにせ元はただの蟹だ)らしく、素直に頷いてはくれないのだ。もっとも、単にドーラクがふわふわした人間に抱き着かれるのが嫌なだけで、に抱き着かれるのが嫌だという訳ではないらしい、という事が、唯一の救いであったりする。
 暫く静かな時間が流れたが、妙に間を置いてから、ドーラクが口を利いた。こういう時、沈黙に耐えられなくなって、口を開くのは大抵なのだが、ドーラクから話すのは珍しい。
「……タンジョービって、何だ」

「……え、ドーラク、誕生日知らないの?」
 思わず、は振り向いた。尋ねてみれば、人の姿を模した蟹は、頷いてみせるではないか。
「誕生日っていうのはね――」はふと考えた。「――何でもいう事聞いて貰える日だよ!」
「……ハァ?」
 もう一度、『ハァ?』だ。しかし今度は声音が違っている。
「誕生日っていうのは、そのまんまで、その人が生まれた日って事。おめでたい事だから、周りの人はお祝いしてあげなきゃいけないの。で、その人が何かして欲しいって言ったら、何でもやってあげなきゃダメなんだよ。だって誕生日だもん」

 ドーラクは、暫く黙っていた。珍しくも、から目を逸らさぬままだ。
 には、彼がジッとしたまま黙ってを見ているのが、嘘がバレたからではなく、人間社会には妙な物があると呆れているからだという事が解っていた。
「……人間ってのは妙な物考えんな」思った通りだ。


 蟹のくせに、大仰に溜息をついたドーラクは、少しの間の後ゆっくりと立ち上がり、それから両腕を広げてみせた。はそれを、抱き着きオッケーの合図だと知る。パッと立ち上がると、そのまま彼の胸に抱き着いた。ギシリと音が鳴ったのは、押し退けられた椅子のスプリングか、それともドーラクの体そのものだろうか。
 薄い胸に、細い腰。正直な話、ドーラクにしがみ付いたところで、少しも気持ちよくないし全く暖かくもないのだが、やはりは彼以外に抱き着きたいとは思わない。

 が抱き着いたまま幸せを噛み締めている時、頭上から声が降ってきた。
「楽しいかよ」
「うん、すっごく」
「そうかよ、俺はこそばゆい」
「んー、あたしもちょっとくすぐったい」
 はくすくすと笑った。
 ドーラクがどうこそばゆいのかは解らないが、は背中がくすぐったかった。何せ、ドーラクの手は人間の手とは大分違っている。細長い指、細長い蟹の足で触れられると、その固い感触に一瞬どっきりする。そして、力が籠っていない分、少しだけくすぐったいのだ。
 やられた事はないが、彼の鋭い指でちょっと突かれたら、固い甲羅を持たないの体には、ぷっつりと穴が開いてしまうのではないだろうか。しかし、同じ事を思っているのか違うのか、ドーラクがに触る時は、本当に腫れ物に触るかのように『触れる』だけだ。やはりくすぐったい。
「あ、そうだ。ねえ、ドーラクの誕生日っていつ?」
「俺の?」
 見上げてみれば、見えるのは彼の口元だけだ。
「知らね」
「えー、生まれた日ぐらいあるでしょ?」
 はそう尋ね返したが、考えてみれば、ドーラクは水族館で生まれたのだろうか。それとも昔は海に居たのだろうか。昔は野生のタカアシガニだったというなら、いつ生まれたかなど記憶してはいないだろう。それに、例え水族館で生まれていたとしても、ドーラク本人は知らなくても無理はないかもしれない。
「じゃあさ、適当に決めちゃいなよ」
「大事な日、じゃ、なかったのかよ、ギシギシ」
「大事だからじゃん」が言った。いっそう強くしがみ付く。「だってドーラクのお祝い、したいもん」

 ぎゅうぎゅうと抱き締めていると、背中に回されているドーラクの腕が不意に動いた。何かと思えば、添えられているだけだった腕に、ぎゅっと力が込められた。珍しい事もあるものだと思いながら、自分が今、身じろぎすら出来ない状態である事に気付く。
「じゃ、今日で良ーや」
「……へ、今日?」
「そ、今日」
 ドーラクの顔を見ようとして、後ろに下がろうとした。が、一歩も下がる事ができない。しっかりと抱えられているおかげで、ほんの少しも後退できなかった。再びドーラクを見上げてみるが、表情は解らない。
「タンジョービってのは、何でもいう事聞いて貰えるんだったな?」
「う、うん……」


「あ、あの、ドーラク、そろそろ離して欲しいななんて……」
 ドーラクの大きな鋏足が、視界の端で動いているのが見えた。
「嫌だね」
 きっぱりと言い切ったドーラクは、そのままギシギシと笑い出した。
 こうなってしまえば立場は逆転だ。いつのまにか、くすぐったさは消えている。いや、確かにくすぐったい感じはするのだが、それ以前にぎっちりと掴まれてしまっている。は力の限りドーラクから離れようとするが、ぴくりとも動かない。薄っぺらい胸板なのに、まるで壁のようだ。元から体の大きさも、何もかも、ドーラクとは違うのだから、動けないのも当然かもしれない。

 普段のだったら、ドーラクに抱き締められるなんて、飛び跳ねて喜びたいぐらいだろう。しかし今のは恥ずかしいやら居た堪れないやらで、とにかく彼の手から逃れたい一心だ。先に抱き着いたのは此方だが、抱き締め返されるなんて、よくよく考えてみれば初めてかもしれない。どうしようもなく恥ずかしい。しかもドーラクは黙ったまま、ニヤニヤと笑っている(もっとも、表情は変わらない。雰囲気で解る)だけだ。
「ご、ごめ、さっきのう――」
「俺がいう事聞いてやったんだから、おまえも俺のいう事聞かなきゃなあ? ギシギシ」ドーラクは笑っている。「さて、ナニしてもらおうか」

 顔中を真っ赤にしているを見て、ドーラクはいっそうギシギシと笑い声を上げた。


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