曲がり角で鉢合わせした相手を見るや否や、心は思わず顔を歪めた。もっとも、赤い心臓のおかげで、それは見られてはいないだろうが。
 いや、別に、彼女のことが嫌いなわけではないのだ。ただ、苦手なだけだ。
「あ、心、さん。こんにちは」
「……どーも」
 がにこっと笑った。その表情には安堵の色が窺える。おそらく、数少ない知り合いに会えたからだろう。心はひらひらと手を振ってみせながら、内心で溜息を吐いた。

「あんた、一人で出歩いてて良いのか?」
「あの、キクラゲが……」
 またあんたの所に行ったのか、あいつ。と、心が後を続けると、彼女は頷いた。あの犬とも猫とも知れない生物は、時々厄介事を引き起こしてくれる。今回もその類だろう。キクラゲはどうやらこの異界から来た少女に懐いているようで、たびたび彼女が住まう部屋へと足を運んでいた。はおそらく、わざわざ恵比寿の部屋までキクラゲを送り届けてきたのだろう。そんな事をせずとも、あれは勝手気儘に屋敷の中を歩いている。放っておいてもやがて恵比寿の所へ戻るだろうに。
 まあ、と心は思う。
 軟禁生活を強いられているのだ、気晴らしもしたくなるだろう。
「来な。送ってってやるから」
「すみません……」
「良いって。あんたをこのまま放ってったら、オレが煙さんに怒られるからな」
 はもう一度、すみませんと謝った。
 彼女はよく、謝罪の言葉を口にする。心の周りにはあまり居なかった人種だ。心は赤いマスクの下、そっとから目を逸らした。

「あの、心さん……」
「あんたに魔法をかけた奴のことだろ?」
「はい……」
「すまねえな、オレ達も探してはいるんだが」
「いえ、心さんが謝って下さる必要は……」
「良いんだ」
「……」
「……手掛かりの一つでも見つかったら、あんたに一番に知らせてやるから」
「……ありがとうございます、心さん」

「そういや、煙さんとはどうなんだ?」
「え? どう、って?」
「あ、いや……」
「煙さんには、本当によくしてもらってます。ただの人間なのに、屋敷において下さって、気に掛けてもらって、……私をこの世界に飛ばした魔法使いのことも探して下さっていて、本当に、何とお礼を言えば良いのか……」
「……そうか」
「もちろん心さん達にも感謝してます。感謝してもし尽せないくらいで」
「いや、オレのことは良いんだ」
 長い廊下、気詰まりな空気から逃げ出したくて自分から振った会話だったが、心はそこで打ち切った。彼女が不審に思わないよう、ごく自然な流れで。
 あんたはもう煙ファミリーの一員みたいなもんだからな、と、そう言えば、彼女は心苦しそうな顔で、微かに笑った。



 彼女を無事部屋に送り届けた後、そこから充分に距離を取った場所で、心は盛大に溜息を吐き出した。どっと疲れが押し寄せてきた気分だった。組織を一つ潰した時だって、これほどの気疲れは感じないだろう。
 自身よりも一回りも二回りも小さく、ひょっとすると指で突いただけで死んでしまいそうな彼女。そして、煙がキノコほども大切にしている彼女。吐き気がした。

 は知らない。知る筈がない――自身をこの世界に呼び寄せた魔法使いが、既に煙ファミリーの手の内にあるなんて。同じ屋根の下、ほんの目と鼻の先に、元の世界に帰る手段があるだなんて。

 が煙に連れられてこの屋敷に来て間もない頃、その男は発見された。今はこの屋敷の地下で生きている。かろうじてではあるが。逃げ出せぬよう足をバラされて死なぬよう能井の煙を繋がれて自殺できぬよう舌を切り取られて、生きている。多少頭がおかしくなっているかもしれないが、魔法には何ら影響はない。
 がその男の存在に気付くことは万が一にも無い。会える筈がないし、会ったところで誰なのかなど解らないだろう。その事を知っているのは煙を含めたごく少数だ。捕えるのに一役買った心も、その少数の中に含まれている。やはりばれる確率は一万分の一以下だ。

 煙の彼女に対する執着は異常だった。幸か不幸か、は気が付いていないようだが。
 は元の世界に帰りたがっているが、煙は帰したくない。その結果、煙はを呼び寄せた魔法使いを拘束するに至った。間違っても、が居なくなってしまわないように。
 心はを哀れに思ったし、また煙のことも哀れに思った。彼がその気になれば、彼女一人をこの屋敷に留めておくことは可能だろうに。わざわざ嘘で塗り固めなくても、だ。なにせ彼女は無力なのだ。しかし煙はそうしない。だからこそ心は、彼を哀れに思う。
 弱々しいを代名詞にしたような女。あの女の何が良いのだろう。
 ――いや、何となく理由は解る。彼女は無垢なのだ。穢れを知らず、疑うことを知らず、脆くか弱い彼女は。

「だからなんだろうな」
 ぽつりと漏れた呟きは、廊下に反響して消えた。
 が己を見上げる時、そこには何の穢れもなかった。彼女に目を向けられるたび、心は自分がひどく汚らしいものに思えてならなかった。だから、自分は彼女が苦手なのだろう。何も、彼女に残酷な嘘をつき続けているからだけではない。彼女を知って二ヶ月ほどになるが、心は未だに彼女から目を背け続けていた。
 そして、だから煙は彼女を手放さないのだろう。
 心はもう一度だけ、小さな溜息を吐き出した。