私には年の離れた兄が一人居た。ちらっと私を見て、それからひどく不器用な手付きで頭を撫でてくれる彼のことが、私は好きだったのだろうと思う。 私の兄は犯罪者だった。 その事を最初に聞いた時、私はまだホグワーツ生で、当然のようにホグワーツに居た。確か、休暇が始まる少し前のことだった。家に帰るのが億劫に思えたことを覚えている。私は予言者を取っていなかったが、見せてもらった新聞の一面にはデカデカと載っていた。確かに兄だった。友達は私を囲んで一体どういうことかと問い詰めたし、全く知らない生徒にもひそひそと指を差されたし、教師達には一様に心配そうな視線を向けられた。 こういう時、普通はどうするんだろう。どうしたら良かったのだろう。 多分、普通は、「あの優しい兄がそんなことをするなんて信じられない」とか何とか言うのだろう。いや、まあ、確かに、私だって友達や教師の前ではそう言った。兄は多分一般的に見ても「優しい」兄だった。私は兄を尊敬してもいた。しかし実際に私がそれを聞いて――つまり兄がデス・イーターとして活動しており、闇祓いの夫婦を拷問したのだということを知った時に思ったのは、「ああ、ついにやったか」とか、「まあやりかねないかもしれないな」とかだった。 前述したように、兄は優しかった。多分、優しかった。兄妹仲だって別に悪いわけではなかった。良いわけでもなかったが。つまり、私達は互いに興味がなかったのだ。一緒に遊ぶにも、喧嘩するにも、とにかく何をするにも年が離れ過ぎていた。兄が理解力の乏しい私のことを煩わしげに見るのはしょっちゅうだったし、逆に私も神経質な兄に一緒に居てもらうよりは一人遊びをしている方が断然良かった。ただ他の友達に聞くように、兄は私を殴ったりだとか意地悪をしたりだとかを一切しなかったので、優しい兄だったのだろうと思う。優しいと形容するには私達の関係は希薄過ぎたが、他に言葉が見付からない。 兄が例のあの人に傾倒していたことは、何となく解っていた。兄との僅かな会話の節々から、彼の闇の魔術への憧れを私は感じ取っていた。私自身は闇の魔術に惹かれたことなどこれっぽっちもなかったので、兄がどうしてそんな邪悪なものに手を出そうとしていた(いや、既に出していたのか?)のかは解らなかった。ただ、父への当て付けが大いにあったのだろうと思う。父は闇の魔術を憎んでいた。理由は知らない。父にとって闇の魔術は絶対的な悪であり、憎むべきものだった。 兄は賢い人だった。OWL試験では十二も優を取ったという。その時の私はまだOWL生にもなっていなかったので、いまいちその凄さが解らなかったが、今ならはっきり解る。12OWLなんて。兄はその賢さ故に、どろどろとしたものに纏わりつかれ、終いには沈み込んでしまったのだ。彼は父に認められたいが為だけに生きていた。 兄の名前はバーテミウス・クラウチ。父の名もバーテミウスと言い、要するに、兄は父親の名前を貰ったのだ。多分、兄にとってしてみれば、父親に認められる事こそが一番の喜びだったのだ。自分と同じ名をした父親に、「自慢の息子だ」と褒められたかったのだろう。私はというと、確かに褒められたいと願わないわけではなかったが、年の離れた優秀な兄がいたのだ。実の所私はそれほど賢いわけではなかったし、優秀な兄が妥当な評価を受けていないのにそれ以上に褒められるわけがないと、幼心に理解していたのだろう、兄ほど評価に執着することはなかった。性差もあったろうが、父に固執し、それに比例して机に噛り付く兄の心情は、私には理解できなかった。私はもちろん父と同じ名前ではなかったし、それ以前に母の名を貰ったわけでもなかったが、仮に私と兄の立場が反対だったとしても、私が兄のように父が認めるような模範生になろうと思ったかどうかは解らない。多分、その辺りは気質の問題じゃあるまいか。とにかく、兄にとって父親という存在は計り知れないほど大きなものだった。 私達の父は、「品行方正」を人にしたような人だった。根っからの仕事人間で、家のことは母に任せっきりだった。兄はどうだか知らないが、私は父に何かをしてもらった記憶がない。せいぜいホグワーツに入学する時に梟を買ってくれたくらいか。父は父で私達のことを大切にしてくれていたのだろうとは思うが、私達は幼い子どもだった。父親とは、愛情を注いでくれるべき存在の筈だった。 父が家庭を顧みない代わりに、母が私や兄に溢れんばかりの愛情を注いでくれた。しかし、兄は母からの愛情だけでは満足できなかった。父親から愛されたい、そういう強迫観念に駆られていた。兄の父への思慕は、いつしか憎悪へと変わっていった。父親に認められたいという思いが兄を縛り、そして押し潰した。すぐ傍で見ていた私には解っていた。 私にできたことといえば、何も解らないふりをして、兄に勉強を教えてくれとせがむことくらいだった。馬鹿な妹という存在を前にして、兄が優越感を感じれば良いと思ったのだ。勿論それでも兄は満たされなかったが、少なくとも不快に感じてはいなかったようだ。想像するしかないが、多分、兄は途中から私の目論見に気付いていたのだと思う。それでも勉強は見てくれて、「こんな簡単な問題も解らないなんて、は可哀想な頭をしているな」と私をからかった。そう言う兄の顔に嘲りの色はなく、ただただ苦笑だけが浮かんでいたのだった。 私がホグワーツに入学した頃だっただろうか。兄は父を見限った。何かしらの出来事があったのかもしれないが、私は知らない。とにかく、兄はその頃から父親を疎み、そして憎み始めた。それに平行するように、闇の魔術の虜になった。もっとも全て私の想像だ。兄との間に会話は殆ど交わされなかったからだ。しかし、それほど間違ってはいないだろう。父と同じように神経質だった兄は、その頃からめっきり笑わなくなった。私は兄の笑い顔がどういう風だったか覚えていない。 父に愛される為に生きていた兄は、父を憎む為に生きるようになった。 私が兄と会ったのは、二年生の時のクリスマス休暇が最後だった。それから例の事件が起こったのだ。復活祭の休暇に帰省することになった時には、もう既に何もかもが終わっていた。兄はアズカバンで一生を終えることが決まっていた。後から知ったことだったが、兄に判決を下したのは、父だったのだそうだ。当時の私は知らなかった。 私が家に居たのは一週間ほどだったか。私は三年次から始まる選択科目を決めねばならなかった。しかし両親に助言を求めることはできなかった。母は毎日を泣き暮らしていた。父は殆ど家に居なかったが、何度か垣間見た限りでは、いつも苛々としているようだった。 二人の前で、兄の話題は禁句だった。兄のことを口にすると、母はわっと泣き崩れたし、父は私を怒鳴り付けた。もちろん私は兄のことを何も聞かなくなった。一切何も。母が泣くのを見たくないからではなかったし、初めて父に怒鳴られたのがショックだったわけでもなかった。だから、私に兄が終身刑を科されたことを教えてくれたのは、哀れな屋敷しもべだった。 休暇は短く、私はすぐにホグワーツに帰った。家庭を顧みない父のことなど正直知ったことではなかったが、母のことだけは気掛かりだった。いや、まあ、父とて跡取り息子が死喰い人だったことや、兄が闇祓いの夫婦を拷問したことなどについて少しも衝撃を受けていなかったわけではないだろう。そこまで冷酷になれるものか。一年の内の殆どをホグワーツで過ごした兄が知り得ぬことを、私は知っている。自慢の息子だ、と、酒に酔った勢いでぶつぶつとそう言っていたことを私は知っている。そんな父をまったく哀れに思わなかった、そう言ったら嘘になる。 しかし、父がもう少しだけでも兄のことを愛していたら、もしくはもっと解りやすく愛情を示していたら、こんなことにはならなかったのではないか、と、幼い私は漠然と思っていたのだ。今考えてみれば子ども染みた考えだ。父だけに責任を押し付けている。勿論、私は子どもだったのだが。私はウィンキーに母のことをしっかり言い含め、学校へと戻った。しかし結果的に、すぐにとんぼ返りすることになった。母が死んだのだ。 大好きな母だった。憧れの母だった。優しい母だった。私は母の死に顔を見ていない。私が血相を変えて家に帰って来た時には既に、葬式も、埋葬も、何もかもが終わっていたのだ。私は泣きながら父を責めた。どうして待っていてくれなかったのかと。父は何も言わなかった。私は母の墓に花を手向けながら、気付けばふと尋ねていた。兄はこの事を、つまり母が死んだことを知っているのかと。 私は、父が怒鳴ると思った。あいつのことを口にするなと。そう怒鳴られることを覚悟の上で、尋ねていたのだ。 父は怒鳴らなかった。ひどく静かな声で、一言だけ言った。 「あんなものは、私の息子ではない」 優しい兄だったのだろうと思う。私達は互いに関心がなかった。ただ、構ってはくれなかったが、それなりに大切にしてくれた。ぶたなかったし、怒らなかった。優しい兄だった。私は兄の笑い顔を覚えていない。むしろ、兄がどんな声で、どんな顔で、どんな風に私に接してくれたかも殆ど覚えていない。しかし、最後に会った時の顔だけははっきりと覚えている。父にそっくりだったからだ。――自分に息子は居ないと言った時の父に、そっくりだったからだ。 その時の父の顔には血の気がなく、今にも死んでしまいそうに見えた。私に対して言ったというよりは、自分に向けて言ったという風が近かったし、むしろ独り言だった。兄を自分の息子ではないと言った時の父の表情は、父が嫌いなのだと、こっそりと私に告げた兄の顔と同じだった。血の気がなく、まるで今にも死んでしまいそうな。 兄がアズカバンで死んだと知ったのは、その日の暮れだった。 それからの父は、私に対してあれこれ指図をするようになった。勉強をしろだの規則を守れだの間違いは犯すなだの。それらは全て兄が欲していたものだった。父が知っていたかは知らないが。後から知ったことだが、その頃の父は世間からバッシングされ、心身ともに参っていた。兄が死喰い人になど走ったのは父のせいだ、と、そう考えたのは私だけではなかったのだ。多分、娘に対して目を向けていなければならないと、今更ながらに思ったのではないか。親の心子知らずとはよく言ったもので、当時の私は何故急に父が私に対して口出しをするようになったのかさっぱり解らなかった。しかしながら逆らわなかった。逆らう理由がなかったのだ。 私は兄と違い、父に対して何の期待もしていなかった。別に父が私を愛そうと努めようと愛すまいと、どうだって良かった。私は既に、父を愛することができなくなっていたのだ。奇しくも兄が父を見限ったのと同じように。 私は父に言われるまま、勉強をし、規則を守り、間違いを犯さなかった。私は優等生になった。五年次には監督生にも選ばれた。OWL試験では全ての科目で優を取り、奇しくもそれは兄と同じだった。父は、よくやったと私を褒めた。兄に対して向けられる筈だった賛辞だ。それから私は主席でホグワーツを卒業した。 数年後、私は結婚した。そしてすぐ家を出た。父が決めた結婚相手だった。年の離れた、純血の魔法使い。魔法省の魔法事故惨事部に勤めている。私は父に逆らわなかった。逆らう理由がなかった。勝手に決められて、むしろ嬉しいくらいだった。これで家を離れられるからだ。私にとって、もうあの家は居場所ではなかった。・クラウチはもう存在しないのだ。解り切った答えを兄に尋ねる、愚かな。 家には、父と屋敷妖精だけが残された。 妻となり、そして母ともなった私は、それ以来父に会うことがなかった。手紙のやり取りはするが、実際に顔を合わせはしなかった。元より父は一人で居たがる質の人だし、それは私も同じだったからだということもあるのだろう。 十余年の月日が流れた。 ある日、父から梟便が届いた。屋敷しもべ妖精を解雇した、手紙にはそう書き綴られていた。何でもないことのように。私には訳が分からなかった。ウィンキーは他の屋敷しもべ妖精と同じように、むしろそれ以上に献身的な妖精だった。彼女を洋服にする理由は無い筈だ。母を亡くし、兄をも亡くした私にとっては、彼女はもはや家族に等しい存在だった。 父親に対する一切の興味は失せていたが、私は一度家に帰ることにした。一言文句を言いたかった。八月の末、私は実家の戸を叩いた。出迎えたのは父だった。 父は私が知る父より、ずっと老けていた。十年以上が経っているのだから当たり前だ。大小の皺が増え、撫で付けられた髪は銀に染まり、少々痩せたようだった。父は私の顔を見ると、「か」と呟いた。いやに静かな声だった。 「お父さん、どうしてウィンキーに洋服をやったの」 「ウィンキー?」 家の内装は、全く変わっていなかった。家具も、調度も、何もかも。父が動こうとしなかったので、私が湯を沸かし、紅茶を淹れた。本来ならウィンキーが居る筈なのに。同じテーブルに着くと、私は開口一番そう尋ねた。 父の声音に、私は何故かぞっとした。 「手紙を寄越したじゃない。ウィンキーを解雇したんでしょう? 何故そんなことをしたの」 「何故?」 先程と同じ声だった。何の感情もない、生気の抜けた声。仕事に没頭しすぎて、どうかしてしまったんじゃないのか。そう思ったのだが、父は突然常のように要領よく喋り出した。先ほどまで呆けていた人物とはまるで違う。私の知る父だ。 「――ウィンキーが私の命令に背いたからだ。あれは命令を無視してはならなかった」 「でも、首にすることはないでしょう」 「お前は一体、何をしにわざわざ戻って来たんだ? 娘の分際で、私のした事、する事に一々口を挿むな。それだけを言いに来たなら、もう――」 父の言葉が途中で途切れた。 テーブルに、影が落ちた。 父の背後に男が立っていた。その姿を認識した瞬間、私の頭の中から何もかもが掻き消えた。悲鳴を上げたかったが、声にならなかった。驚き過ぎて、一瞬言葉を忘れてしまった。私と同じ色素の薄い茶色の髪、そばかすの残る神経質そうな顔付き。記憶に残る姿とは、大分違っていた。 唐突に、父が立ち上がった。あまりに勢いが良すぎて、椅子がガタリと音を立てて跳ねたくらいだった。私はびくりと身を震わせた。父はそんな私に頓着することもなく、そして見えていない筈もないのに後方の兄に少しも反応を示さなかった。兄の手には杖が握られていた。その杖がゆるりと動くと、父が歩き出した。そうして、父は黙って部屋を出て行った。静かに扉が閉められた。ドアノブが音を立てないようにして戸を閉めるのは、父の癖だった。足音が遠ざかっていく。 私は未だ唖然として、父の背が消えた先を眺めていた。どすっと人がソファに沈む音がして、現実に引き戻される。先程まで父が座っていたその場所に、兄が座っていた。兄は少しも私に目を向けず、父が口を付けなかった紅茶を手に取った。 「バーティ……?」 「。お前、老けたな」 兄の口元が少しだけ歪んだ。 兄は死んだ。アズカバンで死んだ。そう聞かされていた。しかし、私は実際に兄の死をこの目で見たわけではなかった。事実、兄は今目の前で紅茶を啜っている。ゴーストにしても、妄執が見せた幻にしても、はっきりし過ぎている。私の頭がおかしくなったわけではなさそうだ。 兄は右手に杖を持ったままだった。 私の脳裏に浮かんだのは、服従の呪文だった。私は兄が何故生きているのか知らないし、今までどこに居たのかも知らない。一体何が起こっているのかも解らない。しかし、兄が今、父を服従させているのだということだけは、言われずとも理解できた。 兄は私が用意した茶菓子を食べるだけで、何を説明しようともしなかった。異様な空間だった。その時二階から物音がして、私は天井へと目を向けた。父の書斎は一階にあった。 「他に誰か居るの」 「ああ」 「貴方は本当にバーティなの」 「ああ」 兄は私の問いに答えながらも、私の方を見なかった。彼の目は机の茶菓子に釘付けだ。休むことなく食べ続けている。兄が、甘い物が好きだという覚えはなかったのだが。私は兄から視線を外した。 「私を殺すの」 「……どうしてそう思う?」 カチッとティーカップがソーサーに戻される音がした後、静寂が訪れた。兄は動きを止めていた。目を上げると、真っ向から視線が噛み合った。兄はひどく間の抜けた表情をしていた。その顔は以前のバーティの面影と、少しだけ重なった。私の問いがまったくの的外れだったのか、それとも尋ねられたことへの驚きか――私には解らなかったが、どうでも良かった。 「貴方がバーティだからよ」 私がそう言うと、やがて兄は低く笑い声を立て始めた。 「そんなもの、答えになってやいないな、」 くつくつと笑い続けるバーティを、私は静かに眺めていた。 私がもう以前の私ではないように、兄も私の知る兄ではなかった。以前の私だったら、操られている父親を見て、何かしらは思う筈だし、行動に移す筈だ。しかし私は驚きさえしたが、これといって何を思うということもなかった。私の知る兄は、決して私のことを馬鹿にしたりはしなかった。嘲笑ったりは、しなかったのだ。 私は、家族の全員を失った。 ――、俺、嫌いなんだ。父さんのことが。 死人のような顔でそう呟いた兄はもう、どこにも居なくなってしまった。 |