がちらりと左隣に目をやると、ダフネが白いブラウスに袖を通しているところだった。寝起きのため、頭はいつものように上手く働かず、はその様を、ぼんやりと見ていた。もう私達、終わりにしましょう。そう言ったのは彼女だった筈なのに、そのダフネは今の今までの横で寝ていた。女心とは解らないものだ、とは一人ごちた。
「ごめんなさい、起こしてしまった?」
「いや」
 の視線に気付いたダフネはそう聞いたが、は気にしていなかった。が目を覚ましたのは、彼女が出した衣擦れの音が原因のようだった。むっくりと起き上がり、肌寒さに思わず身を震わせると、まだ寝ていても良いのにとダフネは小さく笑った。
 ふんわりと、花の香りがした。
 以前この匂いが何なのかと尋ねた時、ダフネはローズマリーの匂いだろうと言った。彼女は一般的な女の子らしく身なりに気を配る方だったし、はダフネがお洒落に気を遣っている事を知っていた。カモミールやラベンダーといった名前を知っているぐらいにしか、は花について知らなかったが、彼女がいつも身に纏っている仄かな香りの事は嫌いではなかった。
 この香りも味わえなくなるわけだ、とはのろまな思考の末に思い至り、すん、と再び匂いを嗅いだ。

 ほんの数時間前、ダフネがに言った。別れよう、と。
 突然の事に、は一瞬呆然とした。らしからぬ表情だったろう。口をオーの形に小さく開け、そのまま少しだけ目を見開く。ダフネはそんなに、少しも気が付かなかった。
 一体どうしてそんな事になったのか、には少しも解らなかった。は彼女の望むままに、側にいて、キスをし、愛を囁いた。何か気に障ることをしてしまったのかもしれないが、如何せんそれが解らないし、察することができなかった。
「貴方の心臓には、毛が生えているのかしら」とダフネは言った。
 彼女がそう言った時、は気付かれない位置で、スッと目を細めた。
 はダフネの事が嫌いではなかった。むしろ、好きだった。彼女の睫がぱちぱちと瞬くのも、長く艶やかな髪も、はにかんだ時にできるえくぼも、気に入っていた。が彼女に囁いた愛の言葉は、あながち嘘ではなかったのに。

 しかし、彼女との仲はこれで終わりだ。これからは、元の同級生という関係に戻る。口惜しい、と感じた時には手遅れだった。彼女は既に着替えて立ち上がった後で、に別れの言葉を告げていた。そしては半ば放心したままではあるが、いつもの通り、こう答えていたのだ。
「――……君が望むなら」


07. Love me Little, Love me Long.



   少し愛して、長く愛して


 がいつも通りの、お決まりの文句を言った時にダフネが見せた表情は、引き留めて欲しかったという意思表示だったのかもしれない。時間をずらし(は一限目をさぼる事になってしまった)授業に出た後、好き勝手に無言呪文が囁かれ合っている中で、はやっとそう察する事ができた。
 誰かに好かれるように振る舞う事は、は得意だった。昔からそうやって生きてきたし、それについての自信も出てきている。しかし、相手の感情の機微を察する事が、どうやら自分は苦手らしかった。
 誰かの下手な呪文の被害に遭ったのだろう、フリットウィック先生がびゅーんと教室の向こう側へと消えていった。はそれを見つめながら、そう結論付けた。
 思い直してみれば、確かにそうかもしれなかった。例えばに取り入ろうとするような、がいつも笑顔で接しているような、そういった連中はいつも自分の保身に動く。だからを怒らせるような事は決してしないし、その逆にが彼らに思う事は何もない。彼らはを「友達」だと思っているかもしれないが、所詮それは利害関係で成り立っているのだ。
 しかし親戚であるドラコや、その他昔からの付き合いだったりする連中に際しては、思い通りに行かない。が感情を表すことは少なかったが、例えばドラコは、の言動に一喜一憂したりする。にはそれが何故か解らないし、どうすれば良いのかと途方に暮れてしまう事さえある。
 それはそうだ。の家族といえば、老いぼれた屋敷しもべ妖精が一人きりだったのだから。

 だから突然ノットが泣き出した時も、は抱き締めた彼の背を撫で、心配はいらないと繰り返すしかできなかった。
 ノットはここ最近、とても不安定だった。そうとしか形容できないほど、ノットはやつれていた。癇癪を起こすことも多々あったし、こうして子供のようにわんわんと泣き喚く事も、今日が初めてではなかった。彼の父親がアズカバンに送られてからというもの、ノットの不安定度は日に日に増していった。
 寝室のすぐ入口で出迎えたノットが全くの無表情で、は内心でぎょっとしたし、ダフネの件で何か言われるのかと気が気ではなかった。しかし彼の口から漏れるのは、父親は大丈夫だろうかという言葉ばかりだった。
 アズカバンでちゃんと元気でいるのだろうか、吸魂鬼なんて連中に父さんが耐えられるわけがない、あの連中は父さんの生気を全て奪い取ってしまうに違いない……。ノットの口から出る言葉は後を絶えなかった。
 がノットの表情を伺えないのと同じように、彼もの顔を見る事はできないだろう。背中をさすりながら、頷きながらも、はまったくの無表情だった。
 自分に抱き付いてグズグズと泣きじゃくるノットに、は心の内で舌打ちをした。こいつは二人だけの時にしか泣かないんだから、タチが悪いよな。他の同室の者でも居ればまだ手はあるというのに、ノットは以外の者が居る場では、決して泣き言一つ漏らさなかった。しかし煩わしく思うものの、はやはり彼の背をさすり、大丈夫だと繰り返す他にないのだった。


 クリスマス休暇になった。大広間には巨大なモミの木が運び込まれ出し、廊下や教室のそこら中に、輝く飾りがなされるようになった。生徒を始め、教師達までもが浮き足立って、クリスマスまでの日をまだかまだかと過ごしているようだった。
 はというと、いつも通り図書館に通っていた。スラグホーンにクリスマスのパーティに来ないかと誘われていた為、今回はホグワーツに残る予定だったのだ。長期休暇に家に帰らないのはこれが二度目で、ベラトリックスに会えない事だけが心残りだった。
 父も叔父も居ない今、母親は一人で過ごしているに違いなかった。あの御方の為と、ずっと家を空けているかもしれないが。
 スラグホーンの事は嫌いではなかったが、好きでもなかった。レストレンジ家の嫡男だからか、それとも若くしての魔法薬学士の肩書きか、首席生徒だからなのか、何にせよを気に入っているらしいスラグホーンは、としては扱いやすかった。しかしは、スネイプ先生の方が好きだった。彼の調合は精密で、緻密で、綿密だ。もちろんそれはスラグホーンも違いないが、彼はどちらかと言えば魔法薬をそれ以上ともそれ以下とも見ていないのだ。スネイプ先生が長い間、闇の魔術に対する防衛術の職に就きたがっている事はも知っていたので、これで良いのだと思う事にしていたが。
 がスラグホーンの誘いに乗ったのは、ダフネと付き合っていた事が一番の理由だった。きっと、彼女ならダンスパーティに行きたいと思ったに違いない。しかし彼女とは別れてしまったので、は新しくダンスのパートナーを見つけなければならなかった。
 パーティに出ないという選択肢もあったのだが、スラグホーンはが行くと返事をした時手を打って喜んでいたし、今更出ない事にするのも何だか癪だった。言葉の通り、スラグホーンの事は嫌いではなかったが、は何処にもぶつけられないやるせなさを感じないわけにはいかなかった。
 は適当に、誰かを誘おうと思っていた。できれば話が続きそうな、レイブンクローの生徒が良い。以前誰かが言っていたように、が誘って受けない女の子は四人に一人ぐらいに違いない。それぐらいは、でも解っていた。

 はあまり知らなかったのだが、休暇中の図書室は普段よりも更に人が少なく、閑散としていた。休みの日に本を読みに来る生徒なんて、よほどの物好きだ。もっとも、自身がその物好きではあるのだが。
 何の気なしに目に付いた本を流し読みしていると、すぐ横に女子生徒がやってきたのが解った。よりも頭が一つ分低く、懸命に背伸びをして上段の本に手を伸ばしている。自然に、はその本を取ってやった。
「ありがとう」そう言ってこちらを向いた女子生徒の顔が固まった。
 同時に、も驚いた。ハーマイオニー・グレンジャーだった。顔を合わせるまで、お互いにお互いだと気付いていなかったらしい。は内心で舌打ちしながら、「どういたしまして」と返した。

「――あなた、今年は家に帰らないのね」グレンジャーが言った。
 は昔から、このグリフィンドール生が苦手だった。自分よりも頭が良い事が気に食わないが、何よりこちらの思い通りに動いてくれない上、まっすぐにの目を見てくる。は微笑を貼り付けたまま、視線を逸らすしかなかった。
「スラグクラブのパーティに出たいの?」
 早く立ち去れと思っているの気持ちを知ってか知らずか、グレンジャーは動かなかった。
「そうだとしても、君には関係のない事だと思うけどね」
「ええ……そうね」グレンジャーの声には、ムッとした響きがあった。
 そのままどこかへ行ってしまえば良いのに、グレンジャーはまだそこを動かなかった。
「ダンスの相手は決まった?」
「……君、存外意地の悪い事を言うんだね」はにっこりした。
 にしては、珍しくも思ったままの事を口にした。もちろん、グレンジャーがとダフネが別れた事を知っているわけはないと解っていたし、仮にそうだとしても、彼女がわざわざそんな事を持ち出したりするような性格ではない事ぐらい、(不本意ながら)は知っていた。
「意外だわ。あなたって、パートナーに困ったりしないんでしょう?」
「そう? それならミス・グレンジャー、僕とダンスパーティに行ってくれる?」
 がにっこりしたままそう聞くと、グレンジャーは目を丸くして、口を小さく開けた。にしたところで、冗談のつもりで聞いている。グレンジャーの頬がうっすらと紅潮したので、は少し意外に思った。グレンジャーとの仲は良好とは言い難いし、彼女に嫌われている自信すらあったからだ。
「……あなたとは踊らないわ」
「そう。僕もそんな期待はしていなかったよ」

「それじゃ、良いクリスマスを」はそう言って、グレンジャーに背を向けた。手にしていた本は既に書棚に戻していた。グレンジャーが去らないというなら、此方が動こう、そういう理由だった。
 しかしここでも、グレンジャーはの思惑通りの行動を起こさなかった。彼女は踵を返したの右腕を、ぐいと掴んだのだ。
「待って。あなたに聞きたいことがあるの」
「僕はないね。手を離してもらえるか」
 もちろん、この事もグレンジャーが知っている筈はないのだが、今彼女が掴んでいる右腕のその場所に、闇の印があった。ローブを引くぐらいなら多少は可愛らしいと思うだろうに、とは心の中で毒突いた。彼女が思いの外強い力でギュウギュウと掴むものだから、ただでさえ何かに触れるだけで焼けたように痛むのに、の右腕は走り続ける激痛に悲鳴を上げていた。
 痛みを堪えているのが顔に出たのかもしれない。グレンジャーは訝しげな顔をして、を見た。
「……ねえ、あなたまさか――」
「腕を放せ、グレンジャー」
 まさか、の後はが遮ったため、グレンジャーが何を言おうとしたのか、誰にも解らなかった。
 グレンジャーは身動ぎ一つしなかった。しかし、手の拘束は緩んでいた。は彼女の腕を振り払い、彼女と向き合った。
「さっきも言ったけれどね、僕が誰と何に行こうと、僕が何処で何をしていようと、君には一切関係のない事だと思うよ」が言った。

「君みたいなのをお節介と言うのだろうね」
 はにっこりした。そして確信した。グレンジャーは、が死喰い人だと見抜いたのだ。しかしだからと言って、彼女に思う事は何もない。本当にどうだって良いのだ。は彼女の方に一歩近付いた。この時グレンジャーの顔に初めて戸惑いが浮かんだのを、は見た。の虫の居所が悪い事を察知したのかもしれないし、彼女の本能が働いたのかもしれない。
 は機嫌が悪かった。朝に受け取った、意図不明の手紙にも腹が立っていたし、グレンジャーが思ったよりも怖がらない事にも不満を感じていた。
「もちろん、何をしようと君の勝手だけどね、それは僕にしても同じだということを忘れないで欲しいね」
 そう言った瞬間、の手はグレンジャーの手首を掴み、本棚に押し付けていた。思ったより細い腕だ。彼女が取り落とした薬学の本が、ドサッと音を立てて落下した。
「さあこれで――」は左手だけで彼女を拘束し、右手で杖を取り出した。
「――君は僕の思いのままだ。お解り?」
「……手を離して」
 グレンジャーは顔を強張らせてはいるものの、いつもの高慢ちきな態度のまま、にそう言った。それが逆に、の心のどこかをまさぐった。
「嫌だね。それに、さっき僕の腕を放してくれなかったのは、どちらさんだった?」
 彼女は口を噤んだままだった。しかし、鳶色の瞳が揺れている。どうすれば逃れられるかと考えているのかもしれないが、には関係なかった。こんな時に図書室に来る人など居ないし、仮に居たとしても恋人同士がいちゃついているようにしか見えないだろう。グレンジャーが叫べばそれですむかもしれないが、その前に声を奪い取ってしまえば良いのだ。利き腕でなくても魔法は掛けられる。もっとも、呪文の効果が多少おかしくなってしまうかもしれないが、彼女がどうなろうともには関係ない。
 この体勢の利点は、グレンジャーがの利き腕が左手だという事を知らないという事だ。杖も持たない女の子を少し拘束するぐらい、細身なでも容易だった。はグレンジャーの目をまっすぐに見つめながら、自分の口角が自然と上がっていくのを感じた。
「……『どうぞ』と言ってみな」
 にっこりと、格別の笑顔でが言った。そうすれば、手を離してやらない事もない。グレンジャーは何も言わなかった。
「ねえ、ハーマイオニー――」は彼女の顔に、自分の顔が触れそうになるぐらい近付けた。彼女の睫一本一本の動きが解るような距離で、は優しく囁いた。「――どうして欲しい?」


  前へ  戻る  次へ