ウィザウィングズは、ウィザウィングズという名を自分で名乗り始めたわけではなかったし、ましてや気に入っているわけでもなかった。名付けられた名前だったので、自分ではどうしようもなかったのだ。ちなみに、ヒッポグリフの間では名は必要ない。毛並みやら、鉤爪の長さで相手を表するのだ。ウィザウィングズは、ヒトと同居していた。
 名付けられた名前を気に入っていないなんて、贅沢にも程があるし、罰当たりだとはウィザウィングズも解っている。しかしやはり、どうも呼ばれ慣れない。ふとした時に、自分が自分であるのか解らなくなってしまう。しかしながら、ウィザウィングズのそんな思いを解ってくれる者は誰一人として居なかった。ウィザウィングズ、と名付けたハグリッドとは、如何せん言葉が通じず、意思の疎通が図れないので致し方なかった。
 別に、『ウィザウィングズ』という名前を『気に入っていない』わけではなかった。ただ、以前の名前の方が馴染みがあったし、より気に入っていたのだ。

 ウィザウィングズには名前が二つあり、以前はバックビークという名だった。
 そのバックビークという名前も、もちろん自身が付けたわけではなく、やはりヒトに名付けられた名前だった。以前名前を付けたのは、幼い人狼だった。ウィザウィングズはこの禁じられた森で生まれ、ハグリッドに育てられたヒッポグリフの一頭だった。生まれて数日後、彼の息子の人狼の子供がやってきて、ウィザウィングズにバックビークという名前を付けたのだ。
 この人狼の小倅――は、今ではすっかり成長し終えていて、頭の毛の先がウィザウィングズの嘴の辺りにまで届くほどになっていた。
 ウィザウィングズは彼が名付けた『バックビーク』という名前を気に入っていたし、できればそちらで呼ばれたいと思っていた。しかしながら、ハグリッドが本当に嬉しそうな表情で、もじゃもじゃの黒髭を更にもじゃもじゃにさせながら「ウィザウィングズ、ウィザウィングズや」と呼ぶので、どうにも仕方がないと諦めていた。仮にウィザウィングズがヒトの言葉を話せたとしても、バックビークと呼んでくれとは言わなかったかもしれない。


 ウィザウィングズの生涯は、一介のヒッポグリフにしては、実に多くに分岐するものだった。しかし、ウィザウィングズは自分で選んだ道を後悔していなかった。だからこそ、今こうしてホグワーツの地をまた踏みしめているのだ。ウィザウィングズはその事を心から喜んでいたし、また一種の誇りにも思っていた。
 ――自分が自分であることは、ウィザウィングズにとって一番の誇りだった。
 牧場に一人の青年が訪れた。だ。彼は白い息を吐き出しながらも、揚々と歩いてきた。そして木の柵を軽々と乗り越えると、ウィザウィングズ達が居る方へとやってきた。自分の目の前に立ったが腰を折り、頭を下げるので、ウィザウィングズも同じように頭を下げてやった。
 毎日繰り返されるそれを、少しくらい短縮したって自分は怒ったりはしないだろう。ウィザウィングズはそう思っていた。それでも律儀に丁寧なお辞儀をするを、ウィザウィングズはやはり気に入っていた。
 ホグワーツ魔法魔術学校に住んでいるヒッポグリフである以上、ウィザウィングズ達はごく稀に授業に駆り出される。しかしながら、そこでのウィザウィングズ達の扱いは酷いものだった。解っているのかそうでないのか、毛並みの反対から撫ぜる輩も必ずと言って良いほど一人は居るし、礼儀のなっていない生徒のなんて多い事か。もちろん、そういう生徒達には、ウィザウィングズ達はお見舞いをしてやることに決めている。
 しかしながらは撫でる手付きといい、お辞儀の優雅さといい、文句の付けようがない。確かに昔はひどかったが、今では父親のハグリッドと同じくらい、ヒッポグリフ達を扱うのが上手かった。

 ウィザウィングズは訳あって、今までひどく長い時間、狭苦しい場所に閉じ込められていた。ヒッポグリフは空を飛び、草原を駆け巡る生き物だ。それなのに、ウィザウィングズは日も差し込まないような暗い屋内に、ずっと閉じ込められっぱなしだった。狂いそうな時間に感じられた。実際、どうにかなりかけていたかもしれない。どうしてそんな事になっていたのか、はっきりとは解らなかったが、何か大切な理由があることは理解しているつもりだった。
 そしてついこの間、ウィザウィングズは解放された。同居人だった黒髪の男(ウィザウィングズはこの男が自分が閉じ込められていた元凶だと理解していたが、長い間連れ添っていただけあって、いつしか情が湧いていたし、それなりには好きだった)がどうなったのか、結局解らずじまいだったが、ウィザウィングズは再びホグワーツに戻ってきたのだ。
 艶々としていた灰色の毛は目に見えて光を失っていたし、羽も抜け、ウィザウィングズは空を飛ぶのにも草原を走るのにも随分と苦労した。しかし仲間達と、そしてに支えられ、段々と元気を取り戻し、今では以前と同じように飛んだり走ったりできるようになったし、一日五匹ものイタチを食べられる。
 は夏からこうして学校が始まってからもずっと、ウィザウィングズの側に付いて色々と世話をしてくれた。ウィザウィングズは彼に感謝していたし、一層彼に愛着が湧き、一層彼を好きになった。元から兄弟のように育った自分達だから、仲が良かった事には変わりがないのだが、ウィザウィングズはになら、自分の血肉を分け与えても良いと思うようになっていた。もっとも、そんな事態にはならないだろうが。

 はウィザウィングズが以前と同じように元気になり、空を飛び回り、風のように走れるようになっても、心配だからと暫くの間、ずっと通ってくれていた。授業が始まる前のほんの少しの時間に、此処までやってきてくれるのだ。鼻を真っ赤にし、雪で足をぐしょぐしょに濡らしながら。
 は自分の体を異常がないか調べ、やがて普段通りのウィザウィングズだと解ると、がしがしと首の辺りを掻いた。これが何とも気持ちよく、ウィザウィングズはうっとりと目を細めた。
 仲間のヒッポグリフ達が羨ましそうに此方を見ていたが、ウィザウィングズは必ずしも彼らの所へも行ってやるようにとを促したりはしなかった。種族の違う親友を独占できるのは、なかなか良い気分だ。
 別に、ウィザウィングズがを押し留めているわけではない。それに彼らも、羨ましいなら自分からの方へ寄っていけば良いのだ。良心は痛まなかった。もちろん、ヒッポグリフが自分から毛繕いを強請るだなんて、そんなはしたない真似をできる筈がないとウィザウィングズは知っていた。一番良いのは、ヒッポグリフが自分から甘えることが決してないのだという事を、が知らない事だ。雪のようなあいつも、最も鋭く長いあいつも、栗色のあいつも、炎のようなあいつも、皆が羨望の眼差しでウィザウィングズを見ていた。
 を独り占めしながら、ウィザウィングズは彼の腹に頭を擦りつけた。の匂いが鼻孔を満たした。禁じられた森と、掘り起こされた土の匂いだ。
「なあ、ウィジー」ウィザウィングズは驚いて、そっと目を開けた。
 ウィザウィングズはが無口だという事を、勿論知っていたからだ。彼が口を利く事なんて珍しいし、それが誰かへの応答ではなく、ヒッポグリフに向けられた独り言だとすれば尚更だ。ウィザウィングズとは、勿論言葉は通じない。
 は別段、此方を見ている訳ではなかった。本当に独り言らしかった。
「俺は、一体どうすりゃええんだろうなあ」
 ぽつり、と、彼が何故だか悲しげに呟いたので、ウィザウィングズは慌ててぐいぐいと彼の腹を押した。そんな事ある筈がないのに、彼が泣いているように見えたのだ。ウィザウィングズはどうすれば良いのか解らなかった。


 ウィザウィングズはいつもと違い、の姿が豆粒より小さくなっても、まだ彼を見ていた。踏み固められた雪道を歩いて城へと一人戻っていく彼は、一層寂しげに見えた。
 ウィザウィングズは自分の体を見下ろした。嵐の空のような毛色を、は格好いいと言って笑ってくれた。翼を見た。長くピンと伸ばしきると、は美しいと言って撫でてくれた。ウィザウィングズは自分の脚を見た。鉤爪で地面を掻くと、は必ず元気だなあと言って眉を下げるのだ。

 ウィザウィングズはヒッポグリフである事を誇りに思っていた。自由に空を翔け回れる事を、何よりも早く大地を走れる事を、誇りに思っていたのだ。
 しかし今だけは――人間が羨ましかった。人間になりたかった。
 人間だったら、あの大事な兄弟を抱き締めてやれるかもしれなかった。人間だったら、あの大事な同胞の話を聞いてやれるかもしれなかった。人間だったら、あの大事な友達の為に一緒に泣いてやれるかもしれなかった。
 やがてウィザウィングズは、ホグワーツ城に背を向けた。おそらく、明日もはまだ日が昇って間もない朝方、城からも小屋からも離れたこの牧場にやってくるだろう。そして同じように、またウィザウィングズの背を撫でるだろう。
 もしそうだったら、とウィザウィングズは思った。
 そうだったら、自分は何も聞かなかったふりをして、何も知らないふりをして、いつものように彼の肩に頭を預けよう。いつものように、彼の手をやさしく噛んでやろう。そうする事が、への一番の慰みになるような気がした。ウィザウィングズは人ではなく、ヒッポグリフだった。
 ウィザウィングズは再び地面をそっと掻いた。