ディーンは驚きのあまり目を丸くした。の言った事を、完璧に理解してしまったからだ。
「そんな事、出来るわけないじゃないか! 一体、何を考えているんだ?」
 ディーンが勢いに任せてそう反論すると、一瞬の間の後、は鼻で笑った。
 一緒に居る小鬼、グリップフックは、ディーンとの言い争いを、何故だか楽しげに見ているようだった。彼は手持無沙汰に自分の長い指を弄んでいるようだったが、その実はっきりと此方の動向を窺っている。ここ暫くはディーン、、グリップフックの三人で一緒にやってきたのだが、グリップフックが魔法使い同士の小競り合いを楽しげに見ているというのは、何も今回が初めてというわけではなかった。
「やってくれにゃ困る。お前さんは知らなんだかもしれんが、先月も先々月も、ダークとテッドがやってくれちょったんだ」
「な――なんだって?」ディーンは一瞬、言葉に詰まった。
「そうだろう。俺の手持ちの脱狼薬はとっくに無えんだ。お前さんが俺に服従の呪文なり気絶させるなりしてくれん限り、俺はお前さんを襲っちまう。人狼になりたかないだろう?」
 真顔でそう言い放ったに、「そりゃ……そうだけど」としか、ディーンは返せなかった。
「だけど、君にあの魔法を掛けるなんて出来るわけがないだろう?」
「だから……やってくれにゃ困るんだ、ディーン。お前さんは人狼になりたいのか? それとも俺に、お前を噛ませたいのか? 満月は今夜なんだぞ、ディーン。気付いてなかったかもしれんがな、人狼っちゅうのは満月の前後は気が短くなるんだ。前に俺とテッドが、馬鹿みたいに大喧嘩してるのを覚えてないわけじゃねえだろう? 今だって、俺は怒鳴らねえよう必死に我慢しとるんだぞ。段々理性を保つのが難しくなってきちょる。日が経つにつれて、体中の細胞が変化に準備をし始める。脱狼薬無しの人狼がどんなに危険なものか。ディーン、いい加減に解るんだ」
「わか……解らないさ! 君は僕の友達だぞ! 友達に、服従の呪文を使うなんて!」
 ディーンの言い訳じみた反論に対し、は何も言わなかったが、普段の彼からは想像できないような溜息を漏らした。ディーンは今まで、がどれほど顰めっ面をしていようと、中身は心優しい青年なのだと思っていた。だが彼が今発した溜息は怒気に満ちていて、怒りの沸点に達した自分をどうにか理性で押し留めている、そんな感じだった。
 吐き出された二酸化炭素の一つ一つに、怒りが込められているようだ。
 ディーンがの頼みを拒絶したのは、許されざる呪文をヒトに対して行使すればアズカバン送りになるからではなかった(「狼人間」相手なら罪にはならないから平気だ、とは笑っていた)。友達にあんな呪文を使いたくなかったからだ。しかしディーンも、本当はそうする以外ないことくらい解っていた。変身したに服従の呪文をかける事は、実際一番良い案だった。
 しかし、だからと言ってそう簡単に許されざる呪文が使えるか? 答えは否だ。
「ならお前さん、いっそ噛まれてみるか?」が笑った。不愉快な笑い方だった。「人狼になってみるか? そしたらこっちの気持ちも解るだろうよ。俺はお前の為に言ってやっとるのに。俺達がどんな気持ちで満月を過ごしているか……。十二分に、解るだろうよ」
「もし僕が君に魔法を掛けたとしたらだ彼女が僕を生かしてはおかないだろうな」
 の怒気が一瞬散り散りになった。効果は覿面だ。彼はぎょっとしたようだった。
「……あいつは――あの人は、関係ない」
「そうかい? 不可抗力とはいえ、君に禁じられた魔法なんて掛けたなんて知られたら、僕は彼女にヒキガエルに変えられるよ」
 が今まで以上に、ぎゅっと眉根を眉間に寄せた。
「関係なかろう。――ディーン、頼むから。俺はお前さんの為を思って言っちょるんだ」

「その人の言う通りです」
 今まで黙っていたグリップフックが、唐突にそう言った。
「人狼は隔離せねばなりません。あなたは噛まれたいのですか? 自分から虐げられる存在になりたいと? それとも、その人に消えない罪を被せたいのですか?」
 ディーンが黙っていると、再びグリップフックは言った。
「親しい者を自分と同類にするという、最も悪しき罪を、自分の友人に着せたいのですか?」
 グリップフックが言った言葉に、は吼えるような声で笑った。無理矢理な笑い方だった。
そうだ。グリップフックの言うとる通りだ。俺はお前を噛みたくない。お前も俺に噛まれたくない。なら俺の手足を拘束し、服従の呪文をかけるのは、最も善なる行為だ。何を躊躇うんだディーン?」がにやっとした。「ゴブリンも、たまには人の為になる事を言ってくれるじゃないか」

 が言い終わると同時に、グリップフックが弄んでいた彼の長い指がぴくりと痙攣するのを、ディーンは目撃した。こちらもこちらで、堪忍袋の緒が切れそう、そんな感じだった。嫌な予感がする。グリップフックが再び口を開いた。しかし今度の彼の声音は先程ディーンに向けて言ったのと違い、本能から出ているような、獣染みた声だ。
「我々は……我々は、人の為に動くようなことはしません」
「そうだろうよ。だがなグリップフック。今お前さんが言ったのは確かにディーンの為になる事だし、つまり、人の為に動いたのと同じだ」
「……人狼が増えれば面倒になるだけだからだ。あなた方の為を思って言ったわけではない」
「小鬼っちゅうのは全員頭が固いのか? ケンタウルスの方がまだ融通が利くかもしれんな。グリップフック、為になるかならないか、そんなもん個人の意志とは関係ねえ。此方がそうと思えばそうだし、違うと思えば違う。そうじゃねえか」
 グリップフックが勢いよく立ち上がった。
 息が詰まるような長い逃亡生活で、彼らの機嫌は最悪の物となっていたのだ。だから、はわざとグリップフックを焚き付けるような事を言ったし、グリップフックもヒステリックにこう叫んだのだ。
「黙れ、人狼の分際で! それが魔法使い魔女の驕りだと言うのだ! 我々の見方と、貴様らの見方が同じと思うな! 汚らわしい人狼が、我らの言う事に口を挟むな! ――野蛮人め! これだから巨人の連中は好かんのだ! 半巨人でも変わりないわ! 野蛮人の育てた子は何がどうあっても野蛮人だ! 人狼の分際で! 少しは自分の身の程を考えろ!」
 明らかに言い過ぎだった。もちろん、喧嘩を売ったに非がある。しかしながらグリップフックの方も普段の冷静さをすっかり失い、言っても良いラインを軽々と飛び越えてしまっていた。が吼え声のような声で怒鳴った。こんな彼の声をディーンが聞いたのは二度目だった。
 先月、テッド達と言い争いをしている時も、彼の声はこんな感じだった。あの時は、ディーンは既に横になって目を閉じていたので彼らの様子を間近で見ていたわけではなかったのだが、今のの顔は、そう――非人間的だ。
 も、立ち上がった。
「野蛮人? 親父の事を野蛮人だと! よくもそんな事が! 言ってはならん事を言ったな! 俺の前で、俺の親父を、侮辱するな!」
 ――果たして、たった一人で狼男とゴブリンの諍いを止める事ができるだろうか。


「気分はどうだい?」
 ディーンが尋ねると、は「最悪だ」と呻いた。
「最悪だ」と、再び。「頭が痛い、全身がだるい、気分が悪い」
「そりゃ……良くないな」らしからぬ返事に、ディーンは苦笑をもらした。

 人狼が人間に戻る瞬間というのは、実に壮絶なものだった。人狼へ変身するのとは逆に、膨れ上がった背は見る影も無いほど縮み、十センチにも伸びていた鉤爪は元の小さな人のそれに戻った。ギラギラと金色に光っていた眼球は、いつしかエメラルド色の瞳へと変わっていた。の変身が完全に解けた時、ディーンはほっと息をついて、彼にかけていた服従の呪文を解いた。ディーンには何故だか、が変身した時よりも元に戻った時の方に恐怖を感じた。
 何故なのかはわからないし、わかりたくもなかった。
 の背後から、先程昇った朝日が輝いていた。ディーンは彼の髪が朝日をきらきら反射させているのに僅かに眩みながら、溜まった眠気と気持ちの悪さによって込み上げてくる吐き気を無理矢理押し留め、に巻き付けていた縄を呪文で切断した。
 起き上がり、ずっと縛られていた手首の辺りをさすりながら、「吐きそうだ」とは呻いた。自分の気持ちをも反映したような彼の言葉に、ディーンは力無く笑うことしか出来なかった。
「平気か? 怪我しとらんだろうな?」が聞いた。
「大丈夫だ。それに、それはこっちの台詞さ。大丈夫だったかい?」
 は「ああ」、と肯定した。
「お前さん、服従の呪文の素質があるぜ。――……ムーディが喜ぶだろ」
 吐き捨てるように、はそう言った。


 結局あの後、ディーンが折れた。に服従の呪文をかけ、念のため手足と口を縛っておく事を承知したのだ。人狼と小鬼の血みどろの取っ組み合いにはならなかった。
 グリップフックは未だに機嫌を悪くしているらしかった。朝食の時間だと呼んでも、寝床からやっては来なかった。もっとも、並んでいるのが萎びた木の実が数個というのも原因かもしれないが。小鬼は生の肉類を好むのだ、と知ったのは最近の事だ。自分達はダークのように魔法が上手い訳でもないし、テッドのように料理についての魔法に精髄している訳ではない。食卓が貧しいのは仕方のない事と言えた。
 は食欲が無いと言ったので、ディーンは実質、一人で朝食を摂った。無論、隣にはが寝そべっていたが、彼は昨日のダメージが大分残っているらしい。彼はディーンが何を言っても、「うん」とか「すん」とかしか言わなかった。
「ねえ、本当に大丈夫かい?」
 今度もは、「ああ」としか言わなかった。
「服従の呪文抜きにしても、大分堪えるんだな」
 ディーンが小さく呟くと、は僅かに首を起こした。ディーンの小さな囁き声も、は聞き取れてしまったらしい。
 狼人間は変身前も普通の人間より聴覚や嗅覚が優れている、とディーンが知ったのも、つい最近のことだった。
 口角を僅かに上げながら、が言った。皮肉な笑みだった。

「言ったろう? お前さん、服従の呪文の才能があるって。お前さんが巧くやってくれた御陰で、俺はちゃんと自我を保ってられたよ。――気付いた時に鉄の味、じゃ、なくて良かったよ」