「アーニー」と、聞き慣れた低音がアーニーの名を呼んだ。
 暖炉前でジャスティンとチェスをしていたアーニーは、首だけで背後を振り返った。誰が自分を呼んだのかは解っていた。思った通り、声を掛けた男子生徒はだった。ちょうど絵画裏を通ってきたばかりらしい。大股で此方に向かってくる。
 はカナリア・イエローのクィディッチローブに身を包んだままだった。目立つ白髪は流した汗でいつもより元気がなく、額にぴったりと張り付いている。どうやら今の今までクィディッチの練習をしていたらしい。
 二週間ほど前、ハッフルパフ・クィディッチチームのビーターの一人が怪我をした。代理として選ばれたのがだった。嫌そうな顔はするものの、断れないは結局渋々ながらそれを請け負い、こうして休日の朝早くから練習に励んでいる。生真面目なことだ。彼の長所ではあるわけだが、よからぬ輩に利用されないと良いがと少し心配になってしまう。
 元々、日々森番の仕事を手伝っているおかげで、の肌は浅黒く日焼けしていた。それが連日のクィディッチの練習で、前にも増して黒々となったようだ。そんな彼は、ビーターとしてはなかなか優秀らしい。少し前にクィディッチチームのキャプテンが、の方を正式なレギュラーにしようか、と独り言を呟いているのをアーニーは偶然にも聞いていた。
 がビーターをやるなんて、似合っているようなそうでもないような。体付きはがっしりしているし、棍棒を手にした姿は妙に様になっているので、ビーターにはぴったりの逸材だったが、どうもしっくり来なかった。多分、彼の人となりを知っているからだろう。

 アーニーが手を挙げて応えると、も頷いて返した。ジャスティンはに「やあ、おはよう」と声を掛けながら、自分は白のクイーンを前進させた。次の彼の一手を上手く躱さないと、黒いキングに王手がかかってしまう。アーニーは唸った。
 はそんな二人の様子を、黙ってじっと見ていた。どうやら彼が親友のジャスティンにでなく、最初にアーニーに声を掛けたのは、丁度ジャスティンが駒を進める番だったからのようだ。ジャスティンの白いクイーンがアーニーの黒のビショップを吹き飛ばした後、は口を開いた。
「昨日の続きか?」
「そうさ」ジャスティンが答えた。微かに笑っている。「アーニーが、負けっ放しじゃ嫌だって言うんだ」
 むっとしたのが表情に出てしまったらしく、彼はますます微笑んだ。
 マグル出身のジャスティンは、ホグワーツに入るまでチェスをやったことがなかった。マグル界では、チェスよりルールが簡潔なボードゲームや、電子機器を用いるテレビゲームといった類の方が流行っているらしい。ジャスティンにチェスのルールを教えたのは、誰でもないアーニーだった。しかしながら彼は今ではそのアーニーよりも強くなっていて、昨日の夜もアーニーと一勝負して勝っていたのだ。アーニーはそれが癪に障っていた。
「ザカリアスを知らんか?」
「僕は見ていないよ」ジャスティンが答えた。
「こんなに朝早くからクィディッチかい? まだ朝食の時間にもなってないじゃないか」
「ああ。こんな朝早くからクィディッチなんだよ」うんざり、という風には言った。
「俺はさっさと、親父と土いじりがしてえんだが」
「なら断ればいいじゃないか? 誰か他の人に替わってもらえば?」
「そう言うんなら、お前さんが代わってくれよな、アーニー。俺はいつでも代わるぜ。怪我ぐらいさっさと治せばええだろうに……フーチ先生が俺を直々に推薦したっちゅうんで、断れんかったんだ」
 アーニーは肩を竦めてみせた。クィディッチは大好きだったが、生憎と箒に乗るのは得意じゃない。そういえばの方は、一年生の頃の箒訓練で良い成績を出していた。後に聞いた話だが、入学する前からちょくちょく箒に乗っていたらしい。そんなもアーニーが「イエス」の返事をすることを最初から期待してはいなかったらしく、アーニーと同じように肩を竦めた。
「ザカリアスなら、まだ寝てるんじゃないかい? 昨日も遅くまで薬草学のレポートをやっていたみたいだし」
 アーニーがそう言うと、は呆れたように目を開いた。「まだ寝とるのか」
 ありがとう、と静かに言ってから、は談話室を後にした。足音が男子寮の方へと遠ざかっていく。おそらく、数分後には寝ぼけ眼のチェイサーを引っ張ってくるに違いなかった。
「こんな朝早くから外で走り回ってるんじゃ、そりゃ、夜中にいびきかいて寝るわけだよな」
 を見送りながら、苦笑混じりにジャスティンがそう言った。


 がジャスティン以外の人間をファーストネームで呼ぶようになったのは、実は去年からだった。いつまで経ってもマクミランだの、スミスだの、アボットだのと、ハッフルパフの同級生ですらファミリーネームで呼んでいたに、誰だったかははっきりと覚えていないが、いい加減まどろっこしいから、とDAメンバーのファーストネーム呼びを強制したのだ。確か、レイブンクローのチョウ・チャンではなかったか。チョウ・チャンが一つ上の先輩だったからか、はアーニー、ザカリアス、ハンナ、と名前で呼ぶようになったし、ハッフルパフ生だけでなく、チョウから始まって、DAメンバーは全員ファーストネームで呼ぶようになった。
 自分達の名を呼ばせるようになったのが他学年の生徒だというのが気に入らないが、関わる人関わる人の殆どを拒絶していたのことを思うと、とてつもない進歩なのだろうと思う。
 彼は人狼なのだから、当然と言えば当然なのかもしれなかった。
 が人狼なのだと、皆が――つまり、ホグワーツの皆が――知ったのは二年前のことだ。ハグリッドの事をリータ・スキーターが記事にし、それに突っ掛かったが今度はネタにされた。もっとも個人への攻撃ではなく、専らダンブルドアの破天荒ぶりを皮肉る記事だった。しかし、を攻撃するにはそれだけで十分だった。彼は狼人間だった。みんなは、特にをよく知るハッフルパフの同級生達は、それでそれまでのの態度に合点がいった。彼は人を遠ざけるように一人で行動したがったし、月に一度は何のかんのと理由を付けて居なくなった。
 しかし、少なくともハッフルパフ生の大半は、が狼人間だと知らされても気にしなかった。改めて考えると、前年の「闇の魔術に対する防衛術」の先生が大きく関係していたのだと思う。ルーピン先生は人狼だったものの、それまでで一番ちゃんとした先生だった。人狼をよく知らないマグル生まれの子だけでなく、魔法族の家の子も、そんなことでを嫌いになったりしなかった。
 むしろ、スキーターに人狼だとバラされるだろうと解っていながら、敢然と立ち向かったのことを、皆より好きになった。


「ポーンをcの7へ」
「クイーンをhの5へ」
 白いクイーンが動いたと思ったら、黒いナイトがずるずると引きずられていってしまい、アーニーは小さく悲鳴を上げた。
 瞼が接着されているようなザカリアス・スミスを引き連れたが談話室へ戻ってきた時、アーニーは自分がどれだけの間次の一手を考えていたのだろうと思った。しかし相変わらずジャスティンは柔和な笑みを浮かべているし、ザカリアスが欠伸を連発している辺り、それほど時間は経っていないのだろう。昨晩アーニーのキングが三度も同じ相手に王冠を脱いだのを覚えているのだろう、黒い駒達が発する不平の声はどんどんと大きくなってくるようだった。ワーワーと文句を言っている駒を無視しながら、アーニーは言った。
「ルークをbの4へ」
「へえ、そう来るのかい?」
 含みのあるジャスティンの声を聞いてから、アーニーは気付いた。
「あーあ」
 ザカリアスが欠伸を噛み殺しながら言った。その声には愉悦が滲んでいて、アーニーは自分の一手が悪手だったことを理解した。はいつものように黙ったままだったが、その目は一心にジャスティンの駒の動向を見詰めている。
「ビショップをgの8へ」ジャスティンの白いビショップが軽快に動き、そして止まった。
「チェックメイト」

 ジャスティンに負けたのは何度目だろう。アーニーの黒いキングは、憤りをぶつけるように、荒々しく王冠を投げ捨てた。
「アーニー、これって何敗目だ?」
 ザカリアスが顔をにやにやさせながらアーニーに聞いた。アーニーがむっとしたのを見て、彼は更に笑った。
「なんだっていいだろ。君こそ、その寝癖、なんとかした方がいいんじゃないかい?」
 ぎょっとして自分の頭に手をやるザカリアスを見て、アーニーは少しだけ気が晴れた。


 二人のクィディッチ選手が足早に静物画へと消えていくのを見送った後、改めてアーニーが口を開いた。
「ジャスティン、もう一回やらないか?」
「いいよ」
 ジャスティンは微笑んでそう答えた。
「じゃ……先攻か後攻、どっちがいい?」
「僕は――じゃあ、今度は僕が先手がいい」
「オーケー、それなら僕は黒だな」
 ジャスティンが言い終わるか否かの内に、二人の会話を聴いていたチェスの駒達が一斉に動き出した。アーニーのチェスの駒達は黒から白へ、ジャスティンのチェスの駒達は白から黒へと変わった。

 三十二個の黒白合わせたチェスの駒が正しい配置に着くと、ジャスティンが言った。
「さ、いつでもいいぜ」
 アーニーはゆっくりと言葉を紡いだ。「ポーンをeの4へ」