ここ最近、彼に対するハリーの態度が、以前とはまるで変わっていることにハーマイオニーは気付いていた。
 ハリーはのことを避けていた筈だった。先日の薬草学で、スプラウト先生が四人組を作るようにと指示した時、ハリーは真っ先にハッフルパフのジャスティンを誘った。ジャスティン・フィンチ−フレッチリーを誘うということは、つまり「黙り屋」と呼ばれているのことも誘う事になる。彼らは何をするにも一緒に行動しているからだ。
 どうやらハリーの行動を窺っていたらしいロンは目を見開いていたが、ハーマイオニーに見られていることに気が付くと、慌ててシェーマス達に話し掛けていた。ロンはを嫌っているのだ。彼らの間に何があったかは知らないが。
 ハーマイオニーとしては、相手が黙り屋だろうが威張り屋だろうが捻くれ屋だろうが、授業に差し支えないなら一向に構わなかった。それに、「沈黙の美少年」ともお近付きになれるわけだ。女の子の間で広まっているその呼び名は、確かに彼を的確に表しているとハーマイオニーも思う。この数年間、が言葉を発している場面をろくに見たことがなかったし、顔立ちも整っている。常に顰め面であることさえ気にしなければだが。

 は、人と関わるということを自分からはあまりしない人間だった。いつでも受け身だし、信じられないくらい無口だ。多分、寡黙という言葉を人にしたらああなるに違いない。
 しかしながら、彼がどういった人間で、今までどういう風に生きてきたのか――三年次の学年末に何となく察しを付けたハーマイオニーは、それ以後、彼の事を非難するようなことは思わないようにしてきた。彼がどんなに無愛想で、此方が苛々するようなことがあってもだ。


 バックビークとシリウスを助け出した次の日、目を覚ましたロンが最初に言った事はこうだ。
「なんでこいつが此処に居るんだ?」
 ロンの悲鳴に近いような声に反応したのは、ハーマイオニーとハリー、そしてマダム・ポンフリーだけだった。ベッドで寝ていたには、ロンの悲痛な叫びも聞こえなかったらしい。彼は寝息を立て、ぐっすりと眠っている。マダム・ポンフリーはぎゅっと眉根を寄せ、ロンを睨み付けた。彼が慌てて口を閉じた後も、マダムは暫くの間鋭い眼差しをロンに向けていたが、やがて「どうやら気分は良いようですね」とだけ言った。マダム・ポンフリーは三人の状態に異常がないことを確認すると、朝食を食べるように勧め、また様子を見に来ると言って医務室と隣接する自室へと消えた。
 ロンはマダム・ポンフリーが扉に鍵を掛けた音を聞くまで、両手で口を塞いだままだった。そして彼女が消えると、もう一度同じ事を言った。
「何でが此処に居るんだ?」
 我慢できない、そんな声だった。
「そりゃ、怪我してるからだよ」ハリーはを顎で示した。
 は眠っていたが、それは規則的な動きを繰り返しているから解ることだった。彼の右目、つまりハーマイオニー達が居る側から見える目は厚くガーゼと包帯で覆われていて、もし彼が起きて目を開けていたとしても解らない。布団から出ている手も七割の部分が包帯で覆われていて、その隙間からは緑色の軟膏が顔を出していた。僅かに見える首元さえ、包帯が頑丈に巻かれている。まるで、何かに噛み付かれでもしたのかと思ってしまいそうだ。
「何だいこいつ。随分大怪我したみたいじゃないか? え?」
 野次馬根性丸出しの顔で、ロンはのベッドを見た。
 しかし、すやすやと眠り続けるに興味を失ったらしい。ロンはベッド脇に置かれている朝食には目もくれず、ハリーへのお見舞いとして送られていた蛙チョコレートの包装をバリバリと破ると、逃げ出そうとする蛙チョコを口に放り込んだ。ハリーもそれに倣う。
 がどうしてこんなに大怪我を負っているのか、ハーマイオニーにはその理由が、その時既に、うっすらとだが解っていた。


 旧友との再会によってかよらずか、脱狼薬を飲んでいない事を忘れてしまったルーピン先生は、暴れ柳の下の抜け道から抜け出した途端、月の光を浴びて「人狼」へと姿を変えた。膨れ上がる背中、伸び出す鉤爪、ぐんと伸びる鼻面。全てが変わり終わった時、ルーピン先生だったものは、恐ろしい唸り声をあげた。
 シリウス・ブラックがすぐさま大きな黒犬に変身し、何とか人狼を退けようとするものの、人狼の恐ろしい程の力には敵わず、キャインと鳴き声を上げ、遠くへ吹き飛ばされた。混乱に乗じてピーター・ペティグリューは逃げ出してしまうし、ロンは気絶させられていてぐったりとしており、動くことは出来なかった。ルーピン先生だった人狼と目が合った時、ハーマイオニーは絶体絶命という言葉を思い出した。――これをそう言わず、何と言うのだろう?
 その時ハーマイオニーは、隣でハリーがぎゅっと杖を握りしめたのを感じていた。

 突然のことだった。
 ルーピン先生の後ろ側に位置していた禁じられた森の中から、がさり、と大きな音がして、もう一体の人狼が現れたのは、まったく突然だった。のそり、という擬態語を背に乗せ、その人狼は森の中から完全に姿を現した。
 ハーマイオニーは早くも先程の考えを取り消さねばならなかった。これが本当の絶体絶命だ。

 森の中から現れた人狼は、ルーピンよりも一回りは小さいようだった。しかしながら、人狼には違いない。皮肉なことに、ハーマイオニーには人狼と狼の見分け方がはっきりと解ってしまうので、あれが普通の狼でないことは理解していた。もっとも、普通の狼であったとしても、危機的状況にはあまり変わりがないのだが。
 人狼は周囲を見回すと、ハーマイオニー、ロン、ハリーを順繰りに見遣り、最後にルーピン先生に目を止めた。その人狼の微かな唸り声を、ハーマイオニーは確かに聴いてしまった。

 人狼が飛び掛かって来た時、クィディッチで鍛えられた素晴らしい反射神経により、ハリーはハーマイオニーとロンを後ろへと飛び退かせた。食われると思ったのは間違いではなかっただろう。ハーマイオニーは杖を振ることも忘れ、成り行きに身を任せるしかなかった。

 しかし予想に反して、森から現れた人狼が飛び掛かったのはハーマイオニー達でなく、ルーピン先生の方だった。人狼が人間を前にして襲い掛からないだなんて、そんなことがある筈はなかった。ハーマイオニーは目を疑ったし、ルーピン先生だってもちろんそう思っていた筈だ。しかし、実際は違っていた。森から現れた狼が襲い掛かったのは、確かにルーピン先生だった。
 まさか同族に襲われるなどと考えていなかったのだろう人狼は、ぎゃっと悲鳴を上げて地面に打ち付けられた。森から出てきた人狼は唖然としているハーマイオニー達には目もくれず、ルーピン先生の喉笛に噛みつき、彼の腕やら脚やらを自分のそれで押さえ付けた。ルーピン先生だった人狼は、痛みで悲鳴を上げた。
 いち早く気付いたハリーが、ハーマイオニーとロンを引っ張った。
 ハーマイオニーがロンを支え直した時、人狼の形勢が逆転した。今度は大きい方の人狼、つまりルーピン先生が、もう一人の人狼に噛み付いていた。森から出た人狼はキャインと悲鳴を上げ、それでもなお、再びルーピン先生に噛み付いた。噛み付き、引っ掻き、再び引っ掻き、二体の人狼はお互いを傷付け合っていた。既にルーピン先生は、ハーマイオニー達の事を忘れているようだった。まるで、互いしか見えていないように、ルーピン先生達はお互いを傷付け合った。
 月明かりだけでははっきりとした判断は付かないが、小柄な方の人狼が肩に、足に、腹に、首に傷が開いているのに対し、ルーピン先生の方は殆ど無傷と言ってよかった。見えるのは左腕からの微量な出血だけだ。森から出てきた、ルーピン先生よりも一回り小さい人狼が肩で息をし始めた時には、人狼達とハーマイオニー達の間には十分に距離が合った。
 二体の人狼が睨み合った。
 不意に、小柄な方の人狼が動いた。ばっと後ろに振り返り、そのまま禁じられた森へと走っていく。ハーマイオニーの目にも、その人狼が大量に出血していることははっきり解った。ルーピン先生は既に同族にしか眼中にないようだった。ハーマイオニー達の方は少しも気にせず、そのまま人狼を追い掛け、やがて二人の人狼は禁じられた森の暗闇へと姿を消した。
 我に返ったハリーが吹き飛ばされたシリウス・ブラックを追い掛けていったのはその後だ。


 お見舞いのお菓子を食べ続けているハリーとロンは、が何故こんな大怪我を負ったのかについて、まったく関心がなくなったらしい。ハーマイオニーが一つ目の蛙チョコをゆっくりと噛み砕いている間に、ロンは既に四つ目の蛙チョコレートに手を出していた。
 咀嚼を繰り返す音だけが、医務室に響いていた。
 ロンが百味ビーンズの開封に取り掛かっている時、医務室の扉がぱっと開いた。そこに立っていたのは、三人の予想した通りマダム・ポンフリーだ。マダムはハリーのベッドの上に散らばっているお菓子の包み紙を見ると、ぎゅっと眉を吊り上げた。「良いですか、あなた方は患者なのです。この医務室に居る間は、私の言うことに従ってもらいます。さっさとその菓子を片付け、決められた食事をなさい」。きっとマダムはこう言うだろうと、三人はそれぞれ似通った事を思い描いた。
 しかし、医務室に入ってきたマダムの第一声はこうだった。「まあ。目を覚ましたのですね」

 ハーマイオニーが後ろのベッド――一番奥にある窓際のベッドを振り返ると、が何とかして上半身を起こそうとしているところだった。午前の目映い日差しに晒され、彼の白い髪がきらきらと輝いている。
「まだ動いてはいけませんよ。そのまま楽にしておいでなさい」
 マダムがにっこりと微笑んで、にそう言った。は何の言葉も発しなかったが、渋々という風情で体を元の状態へと戻した。
 マダム・ポンフリーが何やら緑色の液体の入ったゴブレットをに一滴残らず空にさせている間、三人は無言で百味ビーンズを噛み砕いていた。ついでに、ハーマイオニーが引き当てたのはシナモン味だ。お菓子にこっそりと使われていると美味しく感じるのに、単体で食べるシナモンは美味しいとは言えなかった。


「さあ、あなた方はもう退院してもよろしいでしょう」
 大広間で昼食が始まるかという頃、マダムがハーマイオニー達にそう告げた。三人は立ち上がって、各がお見舞いの品を抱えた。ネビルから送られてきた一箱分と思われる蛙チョコレートは、ハリーが一人で抱えられる量ではなかったのだ。
 ハリーとロンはすぐに医務室の出口に向かったが、ハーマイオニーは思い直して振り返った。丁度、此方を見ていたらしいの左目と目が合った。
「ハリー、蛙チョコを一つあげてもいいでしょう?」
「えっ? ああ……うん、別にいいよ」
 突然話し掛けられたからか、それとも別の理由からか、ハリーは切れ切れに言葉を発した。
 意識を取り戻してから、暫くぼうっとしていたも、今ではいつもの顰めっ面に戻っていた。ハーマイオニーはに、ハリーの蛙チョコを差し出した。
「あげるわ。チョコレートは嫌いじゃないでしょう?」
 はむっつりと黙り込んだまま、じっとハーマイオニーを見つめるだけだ。「黙り屋」のに内心苦笑しながらも、ハーマイオニーは無理矢理の手に蛙チョコレートを三つ渡した。見舞いと、感謝と、親愛の印に。
 マダムは何も言わず、群青色の液体をゴブレッドに注いだ。


 ハリーがジャスティンを誘った時、彼らは既にアーニーやハンナ達と組を作っていたので、ハリーの招待は叶わなかった。しかし彼はあまり気にしなかった。ハーマイオニーは、ハリーがいつの間にと仲良くなったのかは知らなかったが、良い事だと思った。これで、彼と会った途端に黙り込んでしまう身近な人間が、一人減ったことになる。
 いいことだ、と心では思いながらも、ひどく羨ましかった事を、ハーマイオニーは否定することは出来なかった。