馬無しの馬車


 彼女と知り合ったのは、一年の春先だった。多分、イースター休暇が始まるよりは前だろう。雪が解け始めた頃だったように思う。はっきりとは覚えていなかった。何故かといえば、その頃のセオドールにとって、は単なる同級生でしかなかったからだ。しいて言えば、噂通りの変人、くらいにしか思っていなかった。

 という名は、一年生の間でちょっとの間有名だった。もちろん例のポッターには及ばないが、実際に会ったことのないセオドールですら、彼女に纏わる噂を知っていたくらいには有名だったのだ。しかも、それほど好ましくない意味での知名度だった。
 曰く、入学して一週間目で禁じられた森に入り、森番に捕まって二百点の減点と一ヶ月の罰則を貰ったのだとか。曰く、今度はその森番と一緒になってドラゴンの卵を孵しただとか。曰く、大イカ見たさにスリザリンの談話室に侵入しようとしただとか。
 そういった噂を耳にした時セオドールが抱いた感想は、「女って怖いな」だった。根も葉もない、とまでは思わないが、それらの突拍子のない噂は、女特有の陰湿さを存分に発揮した嫌がらせの類だろうと思ったからだ。禁じられた森に自分から入っていくなんて信じられないし、大イカをみたいだけにスリザリン寮に入ろうとしたのも――なんて馬鹿馬鹿しい。
 しかし、実際は殆ど噂通りだった。付け加えて言うなら、は(自分の寮をこういう風に言うのもなんだが)スリザリンの女子生徒とも付かず離れずな距離を保っている。つまり、そこそこ上手くやっているのだ。彼女は純血だということもあったのだろうが、彼女達の間で槍玉にあげられることはなかった。むしろ、ハッフルパフの点数をごりごり削っていくから、そういった意味ではあの好き嫌いの激しいスリザリンの女子達からも、好かれている方なのかもしれない。――とどのつまり、間違っていたのはセオドールだった。根もあれば、葉もあったのだ。
 入学した次の日に森に入ったのも、さっそく罰則をもらったのも、スリザリンの談話室から湖の中が覗けると聞いて入ろうとしたのも、全て事実だった。本当のことだった。セオドールは後に本人に確かめていたのだ。彼女は決して誇らしがることではない筈の罰則履歴を、嬉々として語ってくれた。ただ、どうやら「ドラゴンの卵を孵した」という噂だけは、全くのでまかせらしい。
「考えてもみてよ。あたしがベビーをほっぽりだしてまで、ドロドロ・スネイプなんかのレポートと睨めっこしてると思う?」
 彼女はやれやれといった口振りでそう言ってみせた。暗に、「まったく、この人は解ってないんだから」と言われているような気がしてムッとしたが、実際その通りだし、その後彼女がけらけらと笑い出したのでどうでもよくなってしまった。ただ、彼女が言うには、ドラゴンの卵をどうにかして手に入れられないかとハグリッドと喋り合ったことはあるらしい。結局、そんな卵が手に入る伝手は二人とも持っていないし、どう転んでも犯罪になるから諦めたのだそうだ。セオドールはその話を聞きながら、もしも仮に伝手があったらどうしただろうかと、考えずにはいられなかった。答えは解り切っているが。


 実際に知り合ったのは春先だったが、実のところ、彼女とはそれ以前に顔を合わせていた。もっとも、の方は覚えていないようだったが。セオドールとが初めて口を利いたのは十二月、クリスマス休暇が始まる時だった。
 その日、セオドールは「馬なし馬車」の順番を待っていた。年度の始め、入学した時はセオドール達一年生は舟に乗って湖を渡り、ホグワーツに来た。しかし今回は、馬車に乗ってホグズミード駅へ向かうのだそうだ。城の中まで続いている馬車待ちの列は、果てがないんじゃないかと思うほど長い。それが徐々に、しかし確実に短くなっていく。もちろんセオドールも樫の扉をくぐり、雪の降る屋外へと歩き出た。
 「馬なしの馬車」だと聞いていた。
 セオドールが目にしたのは、黒く不気味で、骸骨のような様相をした「馬のような何か」が、馬車を引いているところだった。何百頭もの得体の知れない馬のような何かが、列を成している。生徒達は和気藹々とそれに乗り込んでいく。セオドールは唖然としてその様子を見ていた。

 ――みんな、あの馬を不気味だとは思わないんだろうか?
 やがて、セオドールは気が付いた。もしかしてあの馬、僕にしか見えていないんじゃないかと。
 誰も彼も、あの馬を気にする様子はなかった。黒い馬に目を留めているのはセオドールただ一人だったのだ。しかし確かめようにも、セオドールは誰かに尋ねる勇気が出なかった。別に友達が居ないわけではないが、セオドールはこの日一人だった。周りに居るのは見知らぬ生徒ばかりだ。前に居る集団はきゃあきゃあと騒ぎ合っている愚かしい女の子達だし、後ろに居たのは六年生の一団で話し掛けづらい。大体にして、誰にも見えていないらしいものを指して、あれは何ですかと聞くのは――遠慮したい。いかにも馬鹿がやることじゃないか。
 セオドールがどうすれば良いのかと迷っている間も、馬車への列は着々と短くなっていった。見れば見るほどに気味の悪い馬だ。馬っていうのは、もっとこう――。
「やだな、そんな顔しなくても、あの子達は襲ってきたりしないよ」
 前に居た、女子生徒集団の一人が――ハッフルパフの一年生だ――セオドールに話し掛けていた。その女子生徒は、ちらっとあの馬の方を見た。黒い馬の方を見た
「君、あれが見えるのか?」
「自分にしか見えないと思ってたの?」
 セオドールが少々ムッとすると、どうやらそれが伝わったらしい。女の子は申し訳なさそうな表情を覗かせ、「見えない人の方が多いのは事実だけどね」と付け足した。

 どうしてあの馬は僕と君にしか見えてないんだ、見える人と見えない人が居るってどういう事だ。と、セオドールはそう尋ねようと思った。しかし言葉にならなかった。同い年だろうハッフルパフの女の子、しかもさっきまで他の子達と一緒になって騒いでいたような、そんなみっともない子に教えてもらうだなんて、セオドールのプライドが許さなかったのだ。馬が存在していることだけ確かめられたのだ(その子が適当に話を合わせているようには見えなかった)、後はどうにでもなる。きっと本には載っているのだろうし、何だったら魔法生物飼育学の先生に聞いたって良い。
「君――」
「じゃあね、みんな。良いクリスマスをね」
 話し掛けようとした先に、女の子は居なかった。少し離れた所から、既に馬車に乗り込んでいた彼女の友人達に手を振っている。セオドールはようやく、その子が手ぶらだということに気が付いた。学校に残る生徒が居るということを、セオドールは忘れていた。
 ぽかんとしていると、女の子と目が合った。
「あなたもね、良いクリスマスを」
 そう言って笑った顔が、何故だか印象的だった。


 まさかその時の女の子が、例のだとは思わなかったし、彼女が筋金入りの変人だということも気付かなかった。他の女子生徒に紛れず、きゃあきゃあと騒いでいないところが印象に残っていた。彼女はノットに声を掛けた後、そのままホグワーツ城へ帰っていった。彼女は家に帰らなかったのだ。一人きりで大理石の階段を昇っていく様子、そして例の黒い馬――セストラルのことを知っていたことも相俟って、彼女は知的な女の子に見えたのだ。
 今のノットなら、何の冗談かと笑ってみせるかもしれないが、少なくとも一年生のノットにとってしてみれば、その時の彼女は半ば尊敬にも似た何かを感じさせる、特別な女の子のように思えた。それだというのに、蓋を開けてみれば変人だった。図書室で再会した彼女は、本という本を積み上げ、その本に埋もれて寝ていた。セオドールがその時のをクリスマスの時に会ったハッフルパフ生だと気付いたのは、机に突っ伏しているその背中と、隙間から覗く髪の毛に見覚えがあったからだ。「」に纏わる噂は色々と聞いていた。クリスマスに会い、そして目の前に居る彼女と「」は、全く繋がらなかった。だからセオドールは聞いたのだ。君に纏わる数々の噂の虚偽はどうなのかと。
 本の湖に沈んでいたは、自分を助け出した男とクリスマス休暇前に会っていたことなど、すっかり忘れていた。セストラルのことを持ち出しても、全く思い出さなかった。それがやけに腹立たしかったことだけは、不思議と今でも覚えている。