一枚のチケット


 は夏休みの間、殆どの時間を本を読んで過ごしていた。山のように出された宿題も、夏休みが始まって二週間が経った頃には全て終わっていた。が嫌いな魔法薬学も、苦手な呪文学も、どうしようもない占い学もだ(先生が辞職してしまったので、大の苦手の闇の魔術に対する防衛術は、嬉しい事に一つも宿題が出ていなかった)。夏休みが終わる前に仕上げるだなんて、自分の性格に合っていないとは思ったものの、他にやる事が何一つなかったのだ。
 去年のようにハンナの家に遊びに行けたら良いのに、保護者である名付け親がそれを許してくれなかった。シリウス・ブラックがホグワーツに侵入した事で、彼の庇護欲は更に増大の一歩を辿ったらしい。
 ブラックが何故忽然とホグワーツから姿を消してしまったのか、は詳しい話を知らなかったが、はそれ以上の興味を持っていない。考えたって無駄だし、立つ鳥は跡を濁しすぎた。ブラックが無実だという事を無駄に知っているので、尚更腹立たしかった。としては、ホグワーツの警戒だけでなく、魔法省の警戒も解いていって欲しかった。そうすれば家の中でジッとしている事もないのに。
 家にある本は殆ど内容を覚えてしまっていたが(もっとも、が読んで良い本だけだが)、かと言って外を出歩いてマグルの図書館に行くわけにもいかず、は仕方なくバグショットの『魔法史』を読んでいた。魔法史は恐ろしい程の頁があり文字があるから、活字を見るだけで吐き気がするという人でない限り、暇潰しには丁度良い本ではあった。自身はと言うと、特別に読みたい本という訳ではないのだが、背に腹は替えられぬというやつだ。退屈で欠伸をしているだけよりはマシだろう。


 日が沈みかけ、がスニジェット保護法の立て役者が誰かを知ろうとページを捲った時、部屋の中心に据えてある暖炉に、突然エメラルド色の魔法火がゴオッと燃え上がり、名付け親が帰宅した。
「ああ、まったく――ただいま、」灰を払い落としながらキングズリーが言った。
「おかえり」
 は視線すら向けず、そう言った。
 キングズリーは少しだけ寂しげな表情を浮かべたものの、そのまま部屋を闊歩し、食べ物を貯蔵してある戸棚を開いた。が覚えている限りでは、ハムの欠片が少しと腐りかけのキャベツが一玉、萎びたニンジンが一つきりしか無かった筈だが、彼は一体それで何をするつもりだろう。
 思った通り、彼は顔を顰めて戸を閉じた。

 キングズリー・シャックルボルトは、正真正銘の名付け親だった。
 顔が似ているという訳ではないし、実際に血の繋がりは無いそうだから、端から見れば赤の他人だ。は彼からも実の父からも詳しく聞いた事はなかったが、どうやら父親の旧知の仲らしく、の後見人は彼一人だった。キングズリーには、父が死ぬ以前にも何度か会ったことはあった気はするのだが、が名前を知ったのも口を利いたのも、一緒に暮らすようになってからの事だった。七歳の時から、は彼と二人きりで暮らしている。
 キングズリーとの父はいくらか年が離れている(父の方が、キングズリーよりも大分年上なのだ)が、そういう友情も有りだろうと思ったのも事実だったので、は尋ねるという事をしていなかった。の父親は闇祓いだったし、キングズリーもそうだったので、だから二人は知り合いなんじゃないだろうかと思っていた。実際には、の父とキングズリーは幼馴染みで、小さい頃から仲が良かったのだが、はその事を知らなかった。


 随分と、今日は早く帰ってきたな。は魔法史を読み進めながらも素直にそう思っていた。今日は別に何か特別な日という訳ではない。の誕生日は八月だったが、つい先日過ぎた。
 ここ一ヶ月の間に解った事の一つに、現在魔法省執行部の闇祓い達はブラックの件でてんやわんやらしいという事があった。しかもキングズリーは、あろう事かブラックの担当になったらしい。彼は毎日残業三昧だ。担当というのは、つまりブラックを追い掛けるわけだ。イギリスの国内外問わず、情報を集めて再逮捕を目指す。数日前、マダガスカルから帰ってきたキングズリーはひどく困憊していた。どうやら骨折り損だったらしい。
 しかも魔法省は今現在行われているクィディッチ・ワールドカップに掛かりきりであり、警備の為に闇祓い部の人員をそちらにも割いているから、キングズリーが夏中家に居ないのも必至だという訳だった。
 去年は新人教育に専念していたとの事だったが、今年は今年で大変そうだ。もブラックと、ほんの少しではあるが付き合いがあったから解る。彼は決して捕まらない。何せ、ホグワーツでの七年間を、全てフィルチから逃げ回る事だけに心血を注いだという男だ。ちなみにこれは本人談だ。は内心で名付け親に同情していた。
 は別にシリウスから言われていた訳ではなかったが、彼の事をキングズリーや他の誰かに話そうとは思っていなかった。ブラックの情報以前に、どうしてそんな殺人鬼と連むような真似をしていたのかだとか、勝手に城を抜け出していた事だとかに対してお説教が始まるのが解りきっていたからだ。

「……パンケーキにでもするか」
 得も言われぬいつもの穏やかな声で、キングズリーが呟いた。
 如何せん彼の声は誰の耳にでも心地よさを与える為、何と言われても一瞬聞き入れてしまいそうになる。夕食にホットケーキって。は内心で、それはないよと思ったのだが、結局面倒だったので、それで良いかと聞かれたのに対し、頷いたし何の文句も言わなかった。同時に何故こんなに帰って来るのが早かったのかとも尋ねたかったが、やはり何も言わず、ただ黙々と魔法史を読み漁っていた。

 夕食に不釣り合いな甘い匂いが漂い出した頃、は分厚すぎる魔法史を漸く閉じた。既に何枚かが焼き上がっていて、大皿に重ねられていた。本気でホットケーキなのかと思いはしたのだが、自分一人で作った美味しくもない食事を、自分一人で食べるよりはマシだった。は立ち上がり、人数分(つまり、とキングズリーの二人分だが)の食器を並べる。ジャムやシロップも並べ出すを見て、キングズリーが小さく笑った。
、クィディッチ・ワールドカップに行けるとしたらどうするね?」
「素敵だね」
 は切り分けたパンケーキにかぶりつきながらそう答えた。何故だかデジャブを感じたが、それ以上特に何も思わなかった。キングズリーの焼いたパンケーキは、が作るそれとは違い、生焼けだったり黒こげだったりせず、甘くて美味しかった。口をもごもごさせながらふとキングズリーを見遣ると、彼はじっとの反応を待っていた。そして、は気付く。
 この名付け親は冗談を言う事はあるが、に対して嘘を言ったりはしないのだ。
「しかも、決勝戦だ」
「……うそ」
 キングズリーはにっこりと微笑んだ。の理解能力は既に容量を超えており、今目の前で起きている事が信じられなかった。え、え、と声をつい漏らすと、彼はくっくと笑い、それから事の次第を説明した。先日手を貸してやった同僚が魔法省のスポーツ部の担当で、世話になったお礼にと、チケットを根回ししてくれたのだという。
「あいにく私は仕事が立て込んでいるし、チケットは始めから一枚しかない。はクィディッチが好きなのだろう?」
「うん、大好き。……え、でも、本当に? 私、行っても良いの?」
 キングズリーは頷いた。
「良いかね、さっきも言った通り、私は一緒に行く事が出来ない。省の同僚に、同じように決勝戦に行くと言っている人が居たから、は彼に面倒を見てもらう事になると思う。ウィーズリーさんの言う事をがちゃんと聞くと約束するなら、私は君にチケットをあげようと思うが、どうかね?」
「……ありがとう、約束する」が言った。


 は努めて冷静な、神妙な顔付きをして言ったつもりだったが、やはり段々と頬が緩んでくるのはどうしようもなかった。キングズリーはそれらを察しており、穏やかな顔をして笑っていた。その日の夕食は、久しぶりに楽しいものになった。は名付け親の言う事に逐一返事を返す事が出来たし、気まずい沈黙が生まれる事もなかった。キングズリーがまた暫く出張になる、と言った事にも、はそれほど大きなショックは受けなかった。
 それからちょうど一週間と二日後には、はクィディッチ・ワールドカップの決勝戦を見ているだろう。はこの時、『ウィーズリーさん』がロンやジニー達の父親だという事を知らなかった。それに、貰ったチケットというのが貴賓席のチケットであるという事も、全く知らなかった。


     戻る