幼き日


「パパーぁ! ビスケットがわれてるー!」
 が叫ぶと、コソコソと(だって、の眼にはこう見えたのだ)低い声で内緒話をしていた大人達は、ぱったりと話すのを止めた。の父もビンセントの父も、二人揃って達の方を向いた。そしての父親は、が手に持っていた紙袋の中身が荒っぽい煙突飛行、もしくは子ども特有の動きに付いてこられなかった事を察したらしかった。
 彼は己の杖をその場で振った。その時には既に、の持っていたビスケットは元通り、先程までぐしゃぐしゃになっていたという事が嘘のように、持たせてもらった時からこうでしたよという風に、元に戻っていた。
「ありがとーパパー!」
 が再び叫ぶと、の父親は何も答えずに、そのままオトナ同士の会話に戻った。

 はビンセントの方に向き直った。
「言ったでしょう? パパは何だってできちゃうんだから」
 がそう言うと、ビンセントは不思議そうな顔をした。
「おまえの父ちゃん、何にも言わずに直したな」
「そうだよ。パパはすごいんだから」
 がにこにこしてるのも気にならないぐらい、ビンセントの目は元通りになったビスケットに釘付けだった。
「ほら、これなら食べれるよ。ね、あなたもいっしょに食べるでしょ? そうでしょ?」
「うん」
 二人で、むしゃむしゃと、パパがくれたビスケットを食べた。二人で食べると、たくさんあったビスケットはすぐに無くなってしまった。
 二人で食べると、無くなるのも二人分早くなるんだなあ!とはその時に思ったのだが、ビンセントが食べた分とが食べた分が大分違うことは解っていた。しかしそれでも、がいつもよりもたくさんビスケットを食べたのは本当だった。
 ビンセントと食べたビスケットはいつもよりも美味しくて、いつもよりも早く無くなった。


「あのねえ、ビスケットね、アリスさんがくれたんだよ。パパと私にって。いっつもね、くれるの。いっつも美味しいんだよ。だからあなたにもあげたかったんだ」
 専ら、が話し役だった。ビンセントは自分から話さなかったからだ。彼はキキジョウズなのだと、は思った。は色々な事を話した。この間の誕生日におもちゃの箒を貰った事(その箒が一週間も経たない内に壊れてしまった事は秘密だ。木にぶつかって真っ二つに折れてしまったなんて、はずかしくて言えなかった)、父親の同僚、キキジョウズなドーリッシュの事。父親の知り合いのおじさんが、つるつる頭だった事。この間、庭に居たジャービーにうっかり指を食いちぎられそうになった事。見せてもらった写真の、父の知り合いが飼っているというクラップが可愛くて、家でも飼おうと言ったのに、父親が承知せずに結局自分は寝るまで泣いた事。
 全部を教えたいと思った。教えたいというよりも、知って貰いたかった。

 結果的に、は誰かと話す事の楽しさを知ったし、ビンセント・クラッブは聞き役に回る事のコツを掴んだ。これだけでも人生の財産となった事に変わりはなかったが、しかしそれ以上に二人の間に何かが生まれた事は、それ以上に変えられる事ができないものなのだった。



 時間はあっという間に過ぎていった。いつしか日は暮れていて、は家に帰らなければならないという事実に気が付いていた。気が付いていたのは父親も同じだったらしく、彼は自分の懐中時計に目をやり、クラッブの父に二言三言、何かを言った。きっと、もう帰る時間だとか何とか、そんなところだろう。
 ――やだ! あたし、まだ此処に居る!
 なんて、一人だけだったら自分の父親に言ったかもしれない。だが今は隣にビンセントという男の子が居た。のちっぽけなプライドが許さなかった。は子供じみた反論をグッと飲み込み、父親が自分に声を掛ける前に立ち上がった。

 クラッブ親子は、暖炉前まで達を見送りに来てくれた。クラッブ家の暖炉と煙突飛行粉を借り、再び煙突飛行での家へと帰るのだ。キッチンでシチューを作るのに忙しく動いていたクラッブ夫人も、キッチンタオルを片手に暖炉の側まで来てくれた。
 は夫人が父親に、夕食を食べていけばと熱心に勧めているのを片目に見ながら、ビンセントになんと別れを告げようかと考えた。
 初めての事だったのだ。同い年の、子どもと遊んだ事なんて。


 の遊び相手はいつでも本だった。
 父親が帰ってくるのはが寝静まった後の方が多いし、彼の他に家族は居ない。父親が元々寡黙な男だからか、それとも彼自身が人付き合いを良しとしていないのかは知らないが、彼が人を家に呼ぶ事など滅多にない。ごく稀に、父親の友達らしき魔法使いが訪ねてくる事もあったが、父親の友達は父親の友達であって、をかまってくれる事はあっても、それだけだった。は家から出歩く事を禁じられていた。だがそれは何となく、理由も解っていた。闇祓いである父は、常に何かを警戒していた。は彼の言葉を裏切る真似はしていないつもりだった。父親を失望させたくはなかった。――だから、には遊び相手となる子どもなんて居なかった。
 本だけは、と一緒に遊んでくれた。いつでも物語の世界へと誘ってくれるし、が知らない事を教えてくれる。
 父親もそうだったのかもしれなかった。まだそんな時期じゃないだろうという年齢の頃に、彼は文字のいろはをに教えてくれた。だからは文字をなぞる事が早くからできるようになったし、知らない言葉に出会ったら辞書を引くという事も覚えた。
 の父親自身も読書が好きなのだろう。彼の家――の家の中には、本という本が数限りなくおいてあったのだ。それこそ骨董品とも言えそうな古い本から、誰の為のものかすら解らないような児童書、闇祓いが読むような闇の魔術に関する本まで。
 いつでも相手をしてくれた本だけは、を裏切りはしなかったのだ。

 父親の親友の家に父と共にが行くなんて、降って湧いた出来事だった。奇跡と言っても過言ではないかもしれない。家を出て父親に手を引かれながら煙突飛行をしている間も、一種の夢を見ているんじゃないかとは思ったし、あの口数の少ない父が彼とは嬉しそう(彼の娘であるだから解った事だが)に話しているのを見ると、なんだか不思議な心地だった。
 訪れたクラッブ家にはと同い年の、ビンセントという一人息子が居た。大人は大人同士、子どもは子ども同士という事で、同い年でしかも男の子と一緒に居なければならないという初めての経験に、は内心緊張していたのだけれど、持ち前の人受けの良さで、彼――ビンセント・クラッブとは楽しく遊ぶ事ができた。
 それこそ、別れるのが惜しくなるほどに、だ。


 こういう時、なんて言えば良いんだろう? また会おうね? バイバイ? 楽しかったよ? は答えを見つける事が出来なかった。また会う時があるのかなんて解らない。バイバイだけでは気軽すぎではないだろうか。楽しかったのは事実だが果たして今言うべきの事なのかは、解らない。
 が重い口を開く前に、ビンセントが口を開いた。
「おまえ……また来るんだろう?」
「わかんない。パパが行くって言ったら来るかも」の答えに、彼は不満そうな顔をした。
「だっておまえと俺は親友だろ?」
 がぽかんと口を開けてビンセントを見詰め返すと、彼は更に不満そうな顔をした。
 親友、親友、――親友? は頭の中で何度もその言葉を繰り返した。
「だって父ちゃん達が親友・・・・・・・・なんだから、俺達も親友・・・・・だ。そうだろ?」
「――ほ、ホントに?」
 は聞き返した。ビンセントが頷いたとき、は彼に抱き付きたくなるのを堪えるのに必死だった。――だってそれじゃあ、あんまり子どもっぽいじゃないか?
「わ、あたしがあなたの親友になっても良いの? 本当に?」ビンセントは再び頷いた。
「それって――それってすっごく素敵! あたし友達って居なかったの! ――ほ、本当に? 私があなたの親友になってもいいの?――初めての友達が・・・・・・・初めての親友・・・・・・だなんて! すっごく素敵!」
 が勢いよく言うと、ビンセントも笑った。
 は父親達が不思議そうに、しかし何処か嬉しげに此方を見ているのも気にせず、ただただ喜んだ。娘がビンセント君と仲良くなったのならまた来る事にしようか、と低い声でクラッブ氏に告げている自分の父親の言葉を聞き逃さず、は彼に思いっきり抱き付く事が出来た。
 ビンセントに「、また来いよ」と言われながら、も「うん、ビンセント、またね!」と、返事をする事が出来た。笑顔で。行き交うのは熱い灰しかない煙突飛行での帰り道も、ただただ楽しかった。

 この日、には人生初の友達、そして初めての親友ができた。


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