束の間の休息


 ハッフルパフの談話室を暗いムードが包み込んだのは、レイブンクローに負けた時と違って、ほんの僅かな間だった。一番の理由はイースター休暇がやってくる為で、みんな悲しんでいるどころではなかった事らしい。しかしながら、休暇が始まると同時に期末試験へのカウントダウンも始まる。復活祭の休暇を、思い思いに過ごす生徒は少なかった。特に五年生と七年生は過酷だった。OWLとNEWTがある為だ。
「待て……待てったらセド! 闇の魔術に対する防衛術を教えてくれる約束だったろ?」
「教えただろう? 君が覚えてくれないのが悪いよ」
「セドリック!」
 そんなやりとりが背後から聞こえてきて、もそちらの方を向いた。思った通り、五年生の男子生徒達ががやがやと喚き合っている。大量に出されている宿題を忘れようと必死らしい。彼らの後ろでは、女の子達がきゃーきゃーくすくすとその様子を眺めている(実際のところ、グリフィンドール戦以来セドリックの人気は急上昇中だった。スリザリン戦で敗北を喫しても、それはなんら変わりはしなかった)。
 そのセドリックが突然目の前に現れたので、は「ひっ……」と小さく叫び声を上げた。
、チェスしよう、チェス!」
「セドリック!」彼の向こうから再びチェンバースが怒鳴る。
 一回だけだから!と言って大声で叫び返すセドリックを見て、も声を上げて笑った。
 やろうやろう、とも宿題を放り投げた。勿論五年生ほどではないが、達にも今までにない程、沢山の課題が出されているのだ。は既にうんざりしていた。返事をした途端に「!」とハンナに睨み付けられたが、「一回だけだから!」と言い返しながら駒を並べる(彼女がどんな形相をしているのか、には手に取るように解るのだ)。

 クリスマスに貰ったばかりの新品のチェスセットだ。は最近ルールを知ったばかりだったので、すぐさま劣勢を強いられた。しかし諦める事はせず、キングを取られまいと黒い駒を動かした。
「なんといってもルクセンブルクだよ。あそこの攻撃は凄いからね――あ、ナイトをfの6へ。チェックだよ」
「……キングをdの8。でもやっぱり、本命はブルガリアでしょ」
 の手駒である黒い駒は着々と少なくなってきていて、比例するようにぶーぶーと不満を漏らす声は大きくなってきていた。はシカトを決め込んでいたが、いつまでもそういう訳にはいかない。あっと思った時には、セドリックが満面の笑みを浮かべていた。
「なるほど、ブルガリアか。ヴァルチャーズは確かに強力だからね。予選も凄かったし……今度のワールドカップも良いところまで行けると思うよ――けどこっちは詰みだ。ビショップをbの6――チェック・メイトだね」
「あっ――あーあー……」
 いつの間にか追い込まれていた。縦には白いルークが待っていたし、のクィーンは崩れてしまったが白のクィーンはピンピンしている。黒いキングが剣を投げ捨てると、も前屈みだった姿勢を戻し、そしてそのままソファーにもたれ掛かった。「なんてザマなの!」と起き上がった黒い女王が叫んだが、はまるっきり無視した。
「ワールドカップ、も行くだろ? もし良ければ、一緒に――」
「行ければ素敵だよね。チケットなんて一回戦でも手に入るかどうか……見に行くんなら教えてよ、プロの試合がどうだったか」
 がむっくりと起き上がってそう言うと、セドリックはほんの少し苦笑して、「そうするよ」と微笑んだ。
 セドリックとの関係は、以前のように戻った。もしかしたら、喧嘩する以前より仲良くなっているかもしれない。まだ少し、お互いにぎこちない雰囲気は漂うものの、も刺々しい気分にはならなかったし、どうやら彼もそうらしかった。ハンナが言うには、お互い気を遣っているのが傍目からでも解るそうだ。
「来年」セドリックがぽつりと言った。「来年こそ、優勝杯を取ろう。みんなで。来年には卒業してしまうメンバーも居る。だけど、今の僕らなら絶対に大丈夫だ」
「そだね」は小さく相槌を打った。
「前にも言ったけど……僕は今度こそ、ちゃんとスニッチを掴んでみせる。絶対だ」
 彼の真剣な眼差しを見て、は思わず笑ってしまった。セドリックは少しだけ眉を寄せてを見たものの、の笑いが嘲りの色を全く含んでいなかった事が解ったのだろう、嫌そうな顔はしなかった。
「良いね。じゃあセド約束してよ、優勝したら、その捕ったスニッチをあたしにくれるって」
 一度で良いからスニッチを手にとってみたかったんだよね、と、は付け足した。
 セドリックは一瞬ぽかんとして、それからすぐに笑い出した。
「良いよ、解った。約束だ」


 セドリックと仲直りはしたものの、の生活自体は元通りにはならなかった。バックビークの控訴裁判があったからだ。は宿題をでっち上げる合間に、膨大な量の本を読んでいた。クィディッチの練習もなくなった為、はイースター休暇の殆どを本の虫になって思う存分過ごしていた。は元から読書は好きだったが、これほど必要に駆られて読んだのは初めてだ。図書室から一度に大量の本を借りていく為に、マダム・ピンスと言い争いをするのも恒例の行事になっていた。もし落としたらどうするのですか、というのが彼女の言い分だ。
 分厚い本の塔をぐらぐらさせながら、が慎重に歩いていると、後ろから追ってきたらしいジャスティンがに言った。
「手伝うよ」彼は言い終わる前に、の腕の中から半分ほど本を奪っていた。
「ありがとジャスティン」
 どういたしまして、と本を抱え直しながらジャスティンが言った。
 闇の魔術に対する防衛術のを調べに来たんだ、と彼は言った。たしか、クラバートの習性についてのレポートが出されていた筈だった。クラバートとは猿のような蛙のような生き物で、身の危険が迫ると額のイボが赤く点滅する魔法生物だ。ふと思い出したように、ジャスティンが言った。
「そういえば、聞いたかい? グリフィンドールの四年生とスリザリンの六年生が喧嘩して、耳から葱を生やしたんだって」
「何それ!」
 その様子を想像してしまい、は笑い転げたくなるのを必死で抑えなければならなくなった。
 休暇明けの最初の土曜日に、グリフィンドール対スリザリンのクィディッチ優勝戦が行われる筈だった。至る所で二寮の小競り合いが頻発していた。ハッフルパフのクィディッチ・チームが練習をしていないのも、する必要がなくなったというのも事実だったのだが、グリフィンドールとスリザリンのどちらかが、いつも競技場を占領しているからという理由もあったのだ。
「僕も見たわけじゃないけど――アーニーが見たんだって――凄かったらしいよ。皆も囃し立てていたみたいだったしね」
 寮に着くまでの間、は笑いっぱなしだった。
「運んでくれてありがとう」はそう言って、ジャスティンから本を受け取ろうとしたのだが、彼は渡さなかった。
「僕は女子寮には入れないけど、談話室で読んでいけば良いじゃないか?」
「んー……まあそれも良いけど、クリスマス休暇と違って、イースター休暇って人が多いんだよね。まあ、だから寂しくはないんだけど」
 は冬の間は、借りてきた本をずっと談話室で読んでいた。自分の他に誰も居ない為、一番暖かい暖炉の前の机を占領できたからだ。が言ったのを聞いたジャスティンは、小さく「それじゃ……今度は僕も残ろうかな」と呟いた。
「防衛術を教えて欲しいんだよ。クラバートって何を食べるの? それに、変身術も」
「……オッケー」が折れた。「本を読みながらで良いならね」
「ありがとう」
「こちらこそありがとう、ジャスティン」
 二人は小さく笑い合って、それから談話室で空いているテーブルを探した。


 クィディッチ優勝杯は、ついにグリフィンドールのものとなった。二一○点の差がついた、見事な試合だった。
 からりと晴れた土曜の朝、も優勝戦を見に行っていた。ハッフルパフが優勝争いに食い込む事はなかったものの、トーナメントの結果を見に行こう、とチーム全員で観戦しに行ったのだ。皆どちらかと言えば、ここ数年一度も優勝杯を掴んでいないグリフィンドールを応援していた。
 間違いなくクィディッチのおかげだろう、最近ではハリーの調子はボガート・ディメンターを前にしても絶好調だった。ハーマイオニーとロンが仲直りした事も、影響しているかもしれない。
「よーし……それじゃあハリー、交代だ、下がって」
 再び吸魂鬼を銀色の盾のようなもので防ぎきってみせたハリーは頷き、代わりにが前に進み出た。最初の頃よりは、も守護霊もどきを出せるようになっていた。杖をぎゅっと握って頷くと、ルーピン先生が杖を振ってトランクを開けた。
 箱から立ち上がった吸魂鬼が顔のない顔をの方に向けた時、は「エクスペクト・パトローナム!」と叫んでいた。吸魂鬼は前に歩き出そうとしたものの、小さな銀色の光の塊に何度も衝突されて、上手く前に進めないようだった。の目の前が霞んできた頃、ルーピン先生がボガートを元の場所に戻した。
「上手に出来たよ、」嬉しそうにルーピンが言った。

 いつものようにチョコレートを貰った後、が不満げに口を尖らせた。
「でも先生、あたしの守護霊、ハリーのよりだいぶ小さいよ」
 実際その通りだった。の杖から飛び出す銀色の守護霊らしきものは、光り方すら劣らないものの、ハリーの杖から出てくるものよりずっと面積が小さかった。のものは両手の平で覆えてしまえそうなのに比べ、ハリーのものは腕をいっぱいに広げても抱き抱えられそうにないのだ。
「うーん……」ルーピン先生はちらりとハリーの方を見た。ハリーは今、少し離れた場所で休んでいた。
「前にも言ったけれど、守護霊は一人一人違うんだよ。イメージが掴めないかもしれないが……例えば私のとある友達の守護霊は鹿だった。鼠に変身させた友人も居たし……犬の姿をしたパトローナスも見たことがある。ダンブルドアのは不死鳥、じゃなかったかな。もしかしたらの守護霊は、ハリーの守護霊の動物よりずっと小さなものなのかもしれないよ。リスとか、蝶々とか――気を落とす事はないよ」
 は渋々頷いた。それを見て取ったのだろう、ルーピンは小さく苦笑した。
「良いかい、誰しもにも得手不得手というものがある。ハリーは元々、闇の魔術に対する防衛術の才能があったんだ。ハリーは呪文のコツを掴むのが早かったのを覚えているね? けれど、にはの良さがある。確かに始めに成功したのはハリーだったけれど、パトローナスの光り具合を見るに、守護霊の呪文のコツを掴んでいるのはだ。他にも、君が得意な事は沢山ある筈だ、違うかい?」
「そうかもね」
 はふて腐れたままそう答えた。守護霊の呪文がなかなか上手くいかない腹立ちと、ルーピンに自分の気持ちが解る筈がないという気持ちとが鬩ぎ合っていた。それに、自分が得意な事という物が思い付かなかった。
 ルーピンは微笑し、の肩をぽんぽんと叩いた。
「もう少しすれば、きっと解ると思うよ。チョコレートをもう一つどうだね?」
 は返事の代わりに手を差し出した。ルーピン先生は笑っていた。板チョコを受け取ったが彼の言った事を理解する事ができたのは、それから一月ほど経った頃だった。


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