真夏のダイアゴン横丁


 の目の前を、黒尽くめの老魔女が横切っていった。ちらりと見えた老魔女の鞄には、一年で最も暑い時期だというのに、特大の唐辛子や、真っ赤で巨大な蝋燭が何本も詰まっていた。見ているだけで暑くなりそうだ。そしてそれらを一体何に使うのだろうかと、実際に聞いたら聞いたで、更に暑くなりそうだ。は思わず、額に流れた汗を袖で拭った。
 隣を歩いていたハンナが、の方を振り向いた。彼女の顔が薄っすら青く見えるのは、恐らく先程のトロッコの酔いが、まだ完全には冷めていないからだろう。しかしグリンゴッツに居た時よりはよっぽど血色が良くなっている。
「ねえ、次はどうしたらいいかしら?」
「薬問屋じゃないかな。材料とか補充しておかないと」
 が答えると、彼女は「そうね」と頷いて、それから二人は薬問屋へと歩き出した。
 夏も真っ盛りだというのに、ダイアゴン横丁は人で溢れ返っていた。二年前に一人で来た時も、こんな感じだったな。そうは思い出したが、今は隣にハンナがいた。


 六月の末、キングズ・クロス駅で約束したように、は夏休みの最後の一週間を、アボット家で過ごしていた。
 友達の家で毎日を過ごすなんて、にとって本当に久しぶりの経験だった。誰かの家に泊まったのは、六歳の時、幼馴染みのビンセント・クラッブの家に泊まった時以来だった。きらきらと目を輝かせながらハンナの家に泊まって良いかと迫ったに、渋々と許可を出した名付け親(この人はひどく親馬鹿なのだ)の顔は、なかなか見物だった。

 二日前に着いたハンナの家は、が想像していた以上に素敵な所だった。
 こぢんまりとした庭は隅々まで手入れが行き届いていて、夏の花々が生き生きと咲き乱れていた。ハンナか、それともその母親の趣味なのかはわからないが、可愛らしい家具や小物で整えられた室内は、今まで縁がなかったせいかとても新鮮だった。学校が終わった時に顔を合わせていた彼女の母親も、そして先日会ったばかりの父親も、アボット家の人々はにこやかにを迎えてくれた。がアボット家を大好きになるのに、それほど時間は掛からなかった。何よりも素敵なのは、ハンナと一緒に居られることだ。


 今日は、ハンナと二人だけでダイアゴン横丁に来ていた。アボット夫人と一緒に行く予定だったのだが、夫人に急に用事ができてしまった為に、とハンナは二人きりで新学期の為の買い物をしに行くことになったのだ。アボット氏は既に出勤していたし、アボット家は共働きで、残る休みの内一緒に出掛けられる日が無かった。
 届いたばかりのホグワーツの手紙を見ながら、とハンナは額を寄せ合った。二人が忙しいのならと二人だけで行くことにしようか、とハンナが最初に提案した時、アボット夫人は良い顔をしなかった。どう考えても二人だけでの外出を許可してもらえる雰囲気ではなかった。しかしが去年と一昨年もほぼ一人で買い物に行ったのだと言うと、夫人はやっと首を縦に振った。彼女の頭にはアズカバンの凶悪脱獄犯の顔がちらついていたのだ。の名付け親がアボット家行きを渋ったのも同じ理由だった。
 ハンナの事をよろしくね、とアボット夫人はに何度も念を押してから(ハンナは、「もう三年生なのよ!」と憤慨していた)、二人が帰ってくる頃にアップルパイが焼けているようにするわね、と達に微笑んだ。

ったら、小鬼とも知り合いなの?」
「何?」
 くすくす笑うハンナは、ホグワーツで初めて会った時と同じように、金髪をおさげに編んでいた。彼女が動くと同時に、そのお下げ髪も一緒に揺れている。今はダイアゴン横丁を、ハンナと共に歩いているのだ。は一足先にホグワーツに戻ったような、そんな懐かしさに包まれていた。の家には自分と同世代の人なんて居なかった。それどころか、殆ど一人だった。
 には兄弟が居ない。母親はが赤ん坊の頃にこの世を去っていた。父親は後妻というものを取らなかったし、もその彼が死ぬまではそれで満足していた。七歳の時に死んだ父親が遺してくれたのは、ただ一人の名付け親だった。
 を引き取ってくれた名付け親には、子どもが居なかった。それどころか、彼は結婚すらしていなかったし、今も独身だった。時々、魔法省執行部のエリートというのも考え物だとは思うのだ。その名付け親は大抵家に居らず、はいつも一人で寂しい思いをしていた。一年生の時に買って貰ったメンフクロウのデメテルは、すっかり運動好きの、逞しい雄梟に育ってしまって(今では買った時の赤ん坊の面影はすっかりなく、マルフォイのワシミミズクほどにデカくなってしまったぐらいだ)、今では手紙を配達している時以外でも、大抵外に出ている。は長い夏休みの間中、ずっと一人きりで家の中に居た。
 ハンナと一緒に居ることは、にとって誕生日が来る事よりも楽しいことかもしれない。もっともその誕生日は、つい二週間ほど前に来たばかりなのだけれど。勉強は嫌だったが、ハンナや友達と一緒に居られるなら、ホグワーツは最高の場所だと言って良い。

 聞き返したに、ハンナは再びくすくすと笑って言った。
「だってさっきの小鬼ったら、ずっとを見てたじゃないの。って動物だけじゃなくて、ゴースト達とかとも仲が良いでしょう? 小鬼にも知り合いが居たりするのかと思って」
 ゴブリンに見られていたなんて、全然気付かなかった。そう言えば、守衛の小鬼がの方を見ていたかもしれない。が「居ないよ」と言うと、ハンナは「そうよね」と答え、それから笑いながら言った。
「そうね、あなたの頑固な寝癖を見てたのかもしれないわね」
 がギョッとして右耳の上の辺りを触ると、ハンナは再びくすくすと笑った。


 足りなくなった薬学の材料を、ハンナと二人でああでもないこうでもないと言いながら、薬問屋で不足の全てを補充し終えた後、達はフローリシュ・アンド・ブロッツ書店へ行くことにした。
 今年は毎年恒例の『基本呪文集』に加え、全く新しい教科書を何冊か買わなければならなかった。去年のように、一つの教科に何冊もの教科書を、なんてことはないのだが、今年から新しく始まる教科がいくつかあるので、早々に買っておくべきじゃないかと思ったのだ。でなければ、予習に間に合わない。もっとも、それ自体はグリフィンドールの友達、ハーマイオニー・グレンジャーの言い分であって、決しての意見ではない。証拠に、もう夏休みは一週間も残っていない。
 もっとも、他に買わなければならない物が思い当たらなかったのも事実だ。二人ともローブの裾をどうこうするほど身長は伸びていなかったし、羊皮紙やら羽ペンやらも買い足さなければならないほどではなかったのだ。
 三年次から新しく始まる教科は、魔法生物飼育学、占い学、それからの場合は古代ルーン文字学だ。どれも専門の教科書が必要だし、特にの選んだルーン文字学など、ルーン語の辞書なども買わなければならないので沢山の荷物になるだろう。今回も、去年の誕生日に名付け親に貰った『物がいくらでも詰め込める鞄』は大活躍の筈だ。今の鞄は二人分の薬草やらイモリのエキスやらがごちゃ混ぜになっていた。

 ブロッツ書店で新しい教科書を揃えながら、は不意に、奇妙な物を見つけた。鉄の檻がある。の視線を追ったハンナも同じように目を見張り、ぱかりと口を開けた。本屋に似つかわしくない鉄檻に入っていたのは、何冊もの暴れ回る本だったからだ。
 暴れ回る本だなんて、マグルが見たら卒倒するだろう。魔女である達が見ても異様な光景なのだから、そうなる事は請け合いだ。
 鮮やかな緑色の表紙に小綺麗な金色の装飾がなされているその本は、互いが互いに相手の本を破らんばかりに暴れ回っていた。檻の中は破れたページやら食いちぎられた本達やらで、とても悲惨な事になっている。
 が思わず「ワーオ」と声を漏らすと、ハンナが勢いよくの方に振り向いた。彼女はが森番のハグリッド並に動物が大好きだという事を知っているのだ。それが強力な毒を持った大蜘蛛でも、巨大な肉体を持ったドラゴンでも、恐ろしいほど凶暴な野生のトロールでも、その愛情は変わらないということも。むしろ危険であれば危険であるほど可愛いと思っていることを熟知している。
 彼女はもしかしたら、がそんな化け物じみた本を買いたがると思ったのかもしれなかった。
「駄目よ、そんな本買っちゃ」ハンナは咎めるようにそう言ったが、それは杞憂と化した。
「やだなハンナ、アレ、教科書だよ」
 鉄の檻の横には、取って付けたように『怪物的な怪物の本』と札が掛かっていた。ぎょっとしたハンナが、急いで今朝届いたばかりの教科書のリストを取り出した。何度もリストを札とを見比べているハンナの顔が、段々と蒼褪めていくのと反対に、のモチベーションはどんどん上昇していた。あんな怪物的な本とこれから付き合って行くのだ――なんてドキドキな事だろう?
 『怪物的な怪物の本』が入っている鉄の檻を、遠巻きに眺めている二人の女の子に気が付いてしまったらしく、店員がやってきた。彼の顔に冷や汗が流れているのをは見た。
「もしかして、魔法生物飼育学を取っているのかい?」
「うん、そうよ」
 がウキウキして答えたのと逆に、店員は「ギャッ」と心の中で悲鳴を上げたような顔をした。
「ふ、二人とも取っているのかい?」
「はい、そうです」
 ハンナが答えるのを聞いた店員は、殆ど泣き出しそうだった。
「少々お待ち下さい」と言い残して店の奥に駆けていった店員が帰ってきた時、手に持っていたのは分厚い皮製の手袋だった。どうやら怪物的な怪物の本は、見た目通り怪物的に噛み付くらしい。もっとも、血の味を求めてなのか、噛み付くことを生き甲斐にしているのかは、尋ねてみない限り解らないが。
 は不意に、良いことを思い付いた。
「わたしがやってもいいですか?」
 いざ行かんと杖を構えていた店員は、の言った事をよく聞き取れなかったらしかった。がもう一度、自分が本を取り出しても良いかと聞くと、店員は度肝を抜かれたらしかった。ハンナもそれは同じだったようだけれど、彼女はが、そう言い出すかもしれないと解っていたらしかった。
「駄目よ、」ハンナが素早く言った。
「どうして? あたしが買うんだもの。自分で選んだって良いでしょう?」
 が店員に「違いますか?」と尋ねると、店員は迷った末に、「ええ、そうですね」と肯定した。

 わくわくしながらゴツい革手袋をはめているのを横目で見て、ハンナはあからさまに溜息をついた
「あなたのそういう所、ちっとも変わらないのね」
 はニヤッと笑い、それから鉄檻に右手を突っ込んだ。


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