sabotage


 あ、ドーラクさんだぁ。
 実に間延びした声でそう言ったのは、サワガニのだった。人間だったら眉を顰めるかもしれないが、生憎とドーラクはタカアシガニであるので、動かせる眉は生えていない。代わりに、固い甲羅がギシリと音を立てた気がした。
、お前何やってんの?」
「さぼたーじゅ」
「……良いご身分だな、ギシギシ」
 器用にも己が居る筈の水槽に腰掛け、ゆらゆらと足を揺らしていたは、どこからどう見てもサボっていた。わざわざ尋ねずとも解っていたのだが、念のためだ。
 丑三つ時の清掃時間。客の人間達が居ないから、ドーラクも悠々と館内を歩き回ることができる。辺りは疲れ切った表情を浮かべた魚でいっぱいだというのに、このカニは。ドーラクはひどく脱力した。

「掃除はどうした、掃除は」
「言われなくってもぴっかぴかですー」
 はまったく悪びれた様子がなかった。彼女が依然として腰掛けている小型水槽は、確かに綺麗だった。目立った汚れは無いし、水槽の中も清潔に保たれている。ただ、「ぴっかぴか」ではないんじゃないか。人の指紋やら何やらがまだ残っているように思う。
 もっとも、それをに告げたところで、彼女が従うとは到底思えない。
「お前よ、幹部に見付かったんだからせめて今ぐらい真面目に掃除しろよ」
「そういえばドーラクさん、幹部だったね」と、。全くもってひどい言い様だ。「でもドーラクさんもサボってる。私と一緒。お相子」
「馬鹿か。俺は今から館長のとこに報告に行くんだよ」
 すっごーい、ドーラクさん、仕事してる! 大袈裟に驚いてみせて、けらけらと笑い出したに、自然と溜息が漏れる。よくもまあ、これだけ大胆にサボっていると思う。見付けたのがドーラクでなかったならば、是非もなく館長室行きだろう。それとも彼女はドーラクにしているのと同じように、のらりくらりと受け流すのだろうか。彼女の交友関係をドーラクは知らない。
 このフロアにはの他に、ハゼやらウグイやらも居るのだが、彼らはサボるを何とも思わないのだろうか。咎めても良さそうなものだが。注意する気力すら無いか、元からに対して興味がないか。そのどちらかだろうとドーラクは結論付ける。
「館長に言い付けてやろうか、サワガニがサボってましたってよ」
「ドーラクさん、意地悪だね」が笑うのをやめて、ジッとドーラクを見た。いつもと顔が違うと思ったら、彼女が水槽に腰掛けているから視線の位置が違うのだ。「そうしたら館長、私を食べちゃうかな」
 あっさりと言い放つ。ドーラクは内心でドキリとしたのを気取られないように、もう一度、「馬鹿か」と静かに言った。
「そうならねえように仕事しろっつってんだろうが」
「んー……」
 あ、駄目だな。ドーラクは悟った。今のコイツに何言っても無駄だ。
 とはドーラクが幹部に昇格する前からの付き合いだった。川に棲むカニと海に棲むカニという大きな違いはあれど、カニはカニだ。同じ種族で通じるものもあり、それなりに仲は良い方だ。会えばこうして口を利く程度には。ドーラクからしてみれば、出世意欲の欠片もないは理解し難いわけだが――誰だって楽はしたい筈だ。もちろん幹部ならではの仕事もあるにはあるが――それでも、なかなかどうしてのことは嫌いではない。
 むしろ気は合うのだ。彼女はふざけることはあれど、ドーラクが本気で嫌がることはしない。それどころか彼女との可もなく不可もない関係は、いっそ心地が良い。

 ドーラクは黙り込んだ。は不思議そうに彼を見遣る。

 仕事をしろ。と、言うのは簡単だ。させるのは困難を極めるが。
 は普段の言動はふざけているが、妙に真面目なところがあって仕事には手を抜かない。今だって口ではサボりと言っているが、単純に休憩しているだけだろう。もっともその時間はやけに長いわけだが。
 彼女が理解しているかどうかは別として、ドーラクとしては、「堂々とサボるくらいなら普段から手を抜いてもっと気楽にやれ」と言っているのだ。彼女がこうしてサボっているのを、もしも伊佐奈に知られたらどうなる? 奇しくも彼女が先程言ってみせたように、食べられてしまうだろう。
 本来、ドーラクは面倒見が良い性格というわけではない。むしろ俺より上位の幹部は皆降格しろと思っている。下位の連中にだって、今以上の働きはするなむしろもっとランク下げろと思っている。

 正直に言ってしまえば、には食べられて欲しくない。彼女とのこの丁度いい距離感を、ドーラクは気に入っているのだ。
 しかし彼女はドーラクの命令を聞きはしない。やりたくないことはとことんやらないのがだった。芯が強いというか、単純に図太いだけだというか。彼女の性格からして、てこでも動かない。だからドーラクは溜息をつく。
「ひどいなあドーラクさん、人の顔見て溜息ついて」
「うるせえよ」
 そう言いながら、ドーラクは彼女の隣に歩み寄り、彼女の水槽に背を預ける。が己を見上げているのが横目に解るが、無視だ、無視。

「やっぱりドーラクさんもサボりじゃんか」
「……違えっつの、ギシギシ」